時空自在

50代空手指導員のそっと伝えたい話

平成最後の夏に(奇妙な果実)

 

8月も終わろうとしている。

 

今年の夏は暑かったですね。

 

きっと、「災害級の暑さ」として記憶される2018年の夏だが、私は太陽に焼かれながら晴天の青さに歓喜していました。

そういえば今年は「平成最後の夏」だ。来年の皇室代替わりに向けて、世間では「平成最後」というキャッチフレーズがますます流行していくだろう。

年号の区切りごとに時代を振り返るのは私のガラではない。年号に関係なく私達は生きて、歳をとっていくからだ。それに、時代の記憶というものほど曖昧なものはない。歴史というのは常に事実という瞬間の後からつくられるもので、どんなに事実に忠実であろうとしても作り手(語り部)の主観が反映されてしまうからだ。

例えば、「過去、日本は侵略戦争をした。日本国民は言論の自由が奪われた中で、無理やり戦争に動員された。その結果、戦争をやりたくなかった多くの国民が死んだ」というような歴史観があるでしょう。そこには一面の真実があるが、多くのこじつけがある。少なくない記録が、国民自ら率先して戦争を支えていった事を証言している。

ではなぜ「過去、日本は侵略戦争をした。日本国民は言論の自由が奪われていたとはいえ、国策に疑問を持たずむしろ積極的に支持した。多くの日本国民の選択は国内外の人々に膨大な人的被害をもたらした」と語らないのだろうか? それは記録や証言の細部を拾いきれていないという問題なのだろうか? もちろんそういう問題もあるだろうが、もっと大きな問題は歴史の「語り部」の主観の在り様なのではないだろうか? 「(戦争は)軍部が悪かった」と済ませる事によって、本当は個人にもっと重くのしかからなければいけなかった加害性や敗北の総括をないがしろにしてきたのではないだろうか。

 

私は、そういうふうに時代を振り返りたくない。

 

最近、家で酒を飲む事を控えている。

私の生は、確実に死に向かって進んでいる。この一秒、この一瞬。痛飲癖は社会生活の過度なストレスを言い訳にした長年の習慣だった。でも、酩酊している間に時間はあっという間に過ぎていく。死に向かって、確実に。

「明晰でありたい」というほど私は優秀ではないが、少なくとも素面でいたい。人はどんなにつまらない人間であっても、生きて、その人の行動や言葉とともに、多少なりとも人々の記憶に何かを残していく。誰もが、この世に生を受けた以上は証言者であろう。

「狂った時代」と或る人々は言う。

だから、せめて素面でいられる時間を増やしたい。

狂気の渦の中で、生が終わるまで眼を開けているだけでよい。でも、もし許されるなら、そこに少しだけ言葉を挟ませてください。

 

きっとこれから半年間、「平成時代の振り返り」がマスコミやネットで流通するのです。私の書くことに特別な事は何もない筈だが、「昭和の終焉」と「平成の終焉」に跨って生きてきた者として、いろいろな事件事象が社会意識とどのように絡んできたのかを吐き出してみたいと思った。

一つの時代の終りを、センチメンタルだけで振り返るのが嫌だ。まして、「狂った時代」に、自分だけ狂っていないように偽装するのが嫌だ。

ある語り手が社会意識にメスを入れるとき、そのメスが自分にも向けられていないとしたら、どうしてその語り手を信用する事が出来るだろうか?

だから、今から書くことは、ある事は「それが出来てよかった事」として、ある事は「これを見過ごしてしまった過ち」として振り返るだろう。または、「あの人のあれは良かったね」「あいつのあれはおかしいんじゃないの?」「あの時僕は間違っていた」として振り返るだろう。

かといって、自分史に引きつけすぎた事、例えば会社員としての経歴とか、習作を何本か書いたとか、空手指導の事とかそういう事を露出したいわけではない。

「どんなに時代が変わっても、魂の流行はない」という言葉がある。私が愛してやまない人から教わった、愛してやまない言葉だ。でも、その言葉を時に忘れるほど、私の魂はあちこちにぶつかり、転がってきた。だから、時代にもて遊ばれて何度も難破しかかってきた感覚や思考や罪を社会意識の変遷という脈絡の中でとらえ返していきたい。

 

ここまで書いたところで時間切れです。

 

(続く)

シリア内戦の終らせ方

 アメリアのアサド軍事基地攻撃によってシリア内戦のページがまた一つめくられた。シリア内戦が悲劇的様相を深めている第一の要因はアサドの強権政治(およびロシアの強力な支援)にあるが、もう一つの要因は国連安保理の機能不全である。アメリカの今回の攻撃が極めて限定的な、政治的アピールの延長にすぎないものである事が明らかになる一方で、アサド体制の存続と、それが意味する内戦の深刻な継続が予想される。アレッポ、グータで起こされた凄惨な市民の犠牲が今後も起こるという事だ。

 

 どうしたら内戦を終わらせる事が出来るだろうか?

 これは口に出して言う事ではないかもしれないが、最も現実的なのはアサドが完全な勝利を収めることである。反政府勢力は拠点都市を奪還されるごとに勢力を減衰させている。また、反体制派が統一した指導部を持たず四分五裂している事も弱体化の要因の一つである。まして反政府勢力がアサド軍に対して軍事的優位に立つことはありえない。もちろん追いつめられていったプロセスにはロシアの参戦があり、イランやヒズボラのてこ入れによってアサド軍が優勢を取り戻した事は忘れてはならない。アサド軍単独ではここまで軍事的優位に立つことは困難だったと思われる。

 ただし、アサドの完全勝利にはまだすさまじい困難がある。残る反体制派拠点であるイドリブ、ダラァを攻略しなくてはならないからだ。反政府地域の人口は推定200万人といわれている(諸説ある)がその多くはイドリブ周辺のシリア北部に居住している。まだ100万人単位で存在するアサドに恭順しない人たちを、これまで同様の徹底した封じ込めと殺戮で掃討するのは容易なことではない。

 シリア内戦を数年間見続けてきてつくづく思うのはシリア人の郷土愛の強さで、なぜ彼らがアレッポにしてもグータにしてもライフラインが断たれる封鎖の中で何年もそこを去らなかったといえば自分たちの生まれ育った土地を離れたくないというただそれだけだったからである。にもかかわらず抗戦に敗れてもアサドに恭順してそこに留まるよりも、別の反政府地域に移る人が多数(推定だが住民の半数)いるのかというと、それはよほどアサドの支配下で生きていきたくないからだ。そのような人々をアサドは政治的に説得することが出来ず、結局ジェノサイドに乗り出すしかない。

 つまりアサド体制の存続・アサドの勝利のためにはこれまで以上の市民の血が流されるということだ。

「戦争は勝者の歴史」だとはいっても、このような独裁者に何もなかったように政権に居座らせていいはずがないだろう。

 一方で反政府勢力に自力で勝利を収める力がない事は先に書いた通りだ。では、国際的な圧力でアサドを退陣に追い込むことが出来るだろうか?

 圧力といっても政治的なものから軍事的なものまで様々あり、今回の米英仏の軍事施設攻撃もその一つだ。前回のブログで書いたが、これについてもとても難しい。そもそも今回の米英仏の軍事アクトは「化学兵器攻撃をやめさせる」一点を目的としており、アサド体制の解体を目指したものではない。いくつかの情勢分析が示している通り、西側諸国はアサド体制の解体を目指していない。アサドに変わる現実的な政治体制が展望できない以上、アサドがいなくなったシリアは崩壊国家と化し、事実上の無政府状態に陥るからだ。それを支えるには莫大な財政と犠牲を伴う人的支援が必要となる。シリアの停戦プロセスを無効化している最大の要因は安保理常任理事国であるロシアの拒否権だが、いま一つ冷静に見なければいけないのは大国の「現実主義」である。

 また、極めて考えにくいがアメリカはじめ西側諸国がアサド体制を解体させることを目的とした軍事行動を決意したらどうなるだろうか?体制転覆を目的とした戦争は地上軍の派遣や地域を丸ごと標的にした戦略爆撃を実施せざるをえず、これはかっての戦史が教える通り凄惨で長期間に渉るものとなり、何よりも市民が多数殺傷されるであろう。

 

 つまりシリア内戦を短期で犠牲者を少なく終結させるオプションがないのである。

 

 これはとても悲劇的で、それを見続けるものにとっても精神的な苦痛を伴うものである。シリアに生きる人々の苦しみについては言うまでもない事である。

 

 21世紀になってから生まれた人がもうティーンエイジャーになっている。高校生とか、大学に入りたての人の中には、世界への関心で志を満たしている人もいると思う。そのような人たちに伝えたい事がある。世界はもともとこんなんじゃなかったんだよ、と。

 

 カンボジアPKOを若い人(こういう言い方が嫌だ)は知っているだろうか?

長年今のシリアと同じような内戦にあったカンボジアに1992年から1993年の間、UNTACK(国連カンボジア暫定統治機構)が乗り込み、戦火に堕ち込んでいた国を文民選挙までもっていった活動がありました。

 日本語でぐぐってもその活動の包括的な総括がなかなか見当たらないのですが、下記

のリンクはとても参考になります。

 

国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)活動の評価とその教訓

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/97-3/i.htm

 

 これを読んで、その成功した結果に目がくらみませんか?

 国家として独立、難民の全員希望地への帰還、選挙の実施…。もし今シリアでこれが可能だったら!!!

 一方で失敗もあります。最大の失敗は、内戦当事者の片方の最大勢力だったポルポト派が停戦に合意しないままUNTACKがカンボジアに乗り込んでしまった事です。平和維持活動の重要な任務に「停戦監視」「兵力引き離し」というのがありますが、まだ戦火が収まらないうちに「停戦監視」をするのは非常に危険な任務となります。

 結果、日本から派遣された国連ボランティアの中田厚仁さん、文民警察官の高田晴行さんが亡くなりました。これは事実上戦死といえる痛ましい犠牲でした。

 

 当時私は20代半ばでした。実はこのカンボジア平和維持活動は、自衛隊初の海外派兵の舞台でもあったのです。いかなる理由があっても、自衛隊が海外に出動するのは良くないという思いで「海外派兵反対」のデモを毎日国会前で行っていました。今はノーベル賞受賞団体の日本代表となっているKさんも当時学生で、高田馬場のアジトみたいな事務所で会議をしながら、若くてバカなので「毎日デモ」とか「24時間デモ」しか思いつかなかったのが懐かしいです。

 

 結論、自衛隊カンボジアへ行きました。「戦死者を出さない」ための政治的配慮から、展開したのは安全な地域での道路整備でしたが。身代わりにボランティアや文民警察が危険地域に赴き、ある意味自衛隊の代わりに犠牲になりました。そのころの私達の率直な思いは、自衛隊カンボジア派兵は政治的なショーだという事でした。自衛隊がover seaする事だけが目的で、内容はどうでもいいのだと。

 

 それでも歴史を俯瞰してみれば、自衛隊はともかくUNTACはその後の国連の平和維持活動と比較しても成功を収めた方でした。

 

 すでにルワンダで国連は全く無力だったし、現在の南スーダンもそうです。だから私は国連の平和維持活動に幻想を持っているわけではありません。今のシリアで、ロシアが安保理を牛耳っている以上何も出来ない事もわかっています。

 でも、軍事が解決策じゃないんだよ。政治外交や国際社会の関与が市民を救うんだよ。その稀な成功例がないわけじゃないんだよ。カンボジアでは、問題だらけだったけどそれが出来た。

 

 シリアだってもはや軍事では解決できないんだよ。

 

 国連が無理ならば別の枠組みをつくればいい。東アジアでは文大統領が頑張ったじゃないか。停戦プロセス、対話の枠組みをどうつくるのかが重要なんだよ。戦争を戦争で終らせようとしたら犠牲者が増えるだけじゃないか。

 

 心ある人に届きますように。

アメリカの軍事介入はシリアを地獄から救うか?

アメリカがいよいよアサド政府へ攻撃を開始する見通しです。この攻撃は去年4月にそうだったように軍事基地をピンポイントで狙った限定的なもので終るでしょうか。それとも、レッドラインを越えたアサド体制を崩壊に追い込むほどの、新たな戦争と呼べる規模のものになるでしょうか。

 私は本稿で情勢分析がしたいわけではありません。内戦八年目にしてこの世の地獄と呼べる様相を呈してきたシリアからの情報に日々接していて、自分自身の精神的安定すら危機にさらされかねない中で、同じようにシリアの惨状に心を痛めている皆さんに徒然なる思いを伝えたいだけです。

 

 アメリカの介入は、シリアを地獄から救うでしょうか?

 

 一体、正義とは何でしょうか?

 化学兵器を用いること、それによって市民を多数殺すこと、秘密警察が跋扈し、反政府的な人物を収容所で拷問し、虐殺すること。生まれた街を愛するために反政府派のもとで居住する市民から流通や移動の自由を奪い、一方的な軍事力で街を廃墟にし、市民多数を殺すこと。言うまでもなくこれらは悪です。

 では公然と行使される巨悪を止めるために何が出来るでしょうか?

 軍事力に対抗して軍事力を行使すること。意外に思われるかもしれませんが私はその事一般を否定しません。かってのわが国やナチスのように、許容量を超えた権力が行使してはならない軍事力を行使するとき、やむをえず軍事で対抗する、そのような事は今後の歴史でもありうるでしょう。犯されそうな尊厳を守るための努力の一つとして、不義の暴力に実力で抵抗することは近代の法理念の根本であるとも考えます。

 

 アサドの暴力は、このような許容範囲を超えた不正義であることも異を唱えません。シリア革命が内戦へと至っていったのは、シリア軍の分裂もありますが内外の世論を無視して退陣を拒んだ大統領が反政府勢力を鎮圧するオプションしかとらなかったためだし、ISやヌスラの台頭でイスラム過激派の影響ばかり喧伝されましたが紛争の最も根源にあるのは市民革命・市民戦争だと考えます。反政府勢力はかっての影響力を大きく減少させていますがその最大の要因はロシアの全面的な介入と、それによって際限なく可能となった抵抗都市への無差別爆撃なのであって、ダラヤ、アレッポ、グータと都市封鎖から続く全面攻略がどれだけ悲劇的なものであったかは今さら繰り返すまでもないでしょう。

 

 これら圧倒的な暴力に抵抗するための実力行使は正義であるとさえいえます。法的に言うと正当防衛や抵抗権の範疇であるからです。私はシリア内戦の中で、市民の巻き添え死やボランティアの献身以外にも、反政府勢力の闘争にも共感を抱くことが少なからずありました。近代以降、警察権や自衛権など社会秩序を守るための暴力は国家が独占しているのが実情ですが、国家が不当な暴力を行使するならそれに対抗することはやぶさかではないと考えます。私は非暴力主義者ではないのです。オブラートにくるまずに言えば、それが本当に必要な場面では暴力も必要であるとすら考えています。

 

 前置きが長くなりました。 

 

 ここで冒頭の問いに戻ります。

 

 アメリカの介入は、シリアを地獄から救うでしょうか?

 

 長い前置きを書いたのは、私の関心が正義の所在にあるからです。アメリカの介入は正義でしょうか?

 反体制地域の多くの人々は都市封鎖、空爆化学兵器に苦しめられ、侵攻したアサド軍に恭順を誓った人々ですら処刑されたり徴兵されたりしている。アサドが言論でどうにかなるものでもない。誰かがアサドを止めなければならないとしたら、シリアへの軍事攻撃という今回のアメリカの決定は正しいと言えるでしょうか?

 私は悲観的です。もし戦時法というものが遵守されるなら攻撃は軍事施設、戦闘員に限定したものでなければならない。昨年のハーンシャイフーンへのアサド政府によるサリン攻撃の後、アメリカは政府の空軍基地にミサイルを撃ち込みました。結果、何かが変わったかというと何も変わらなかった。警戒を高めている軍事基地を限定的に攻撃したところで、大きな打撃があるわけではないのです。アサドを退陣に追い込むような実力行使があるとすれば、イラク戦争のようなシリア全土を対象とするような戦略攻撃をせざるをえない。私達の歴史は教えてくれる。太平洋戦争末期、B29は当初軍事施設への精密爆撃を行っていた。それでは日本の国力を壊滅させることは出来なかったので司令官が更迭され、あの焦土作戦へと変更された。

 もし今回のアメリカの攻撃が限定的なものであるならばそれは政治的なショーと大差はなく、アサド・ロシアの暴虐を止める事は出来ないでしょう。もしアサド体制の解体を狙うなら政府側支配地域に住む市民の多数が巻き添えになって死ぬような凄惨な闘いになるでしょう。

 対アサドではありませんが直近のシリアではラッカをISから「解放」するために米軍主導の大規模な空爆が実施され市民多数が死亡しました。また北部アフリンを「クルド人テロリスト」から「「解放」するためトルコ軍の空爆が実施され、ここでも多くの市民が亡くなりました。相対的な規模でいえばアサドのやっている事よりも小さいとはいえ、ある権力が別の権力を駆逐しようとする時に起こる事は同じです。ここまで来ると、発端は正義の戦争であったものが、プロセスを間違えると不正義に転化すると言わざるをえない。中国を侵略した日本は不正義だが、東京大空襲ヒロシマナガサキを「アメリカの正義」とは言えない事を私達は知りすぎている。

 

 ここには、国連安保理の機能不全という問題もあります。かって曲がりなりにも機能していた紛争地域の停戦監視や文民政府への移管ということがロシアの存在で全くできずにいるからです。過去、新聞の国際面を賑わせた平和維持活動という言葉は死語になりつつあります。

 それでも私は国際社会という実に漠然とした実体のないものの良心によってしかシリア内戦は解決されていかないと考えています。一時期トルコが提案していたような、シリア北部を国内難民のための安全地帯にする構想はどうなったのでしょうか? ヒラリーが提唱していたノーフライゾーンはどうなってしまったのでしょうか? ロシアの抵抗の中で実現が難しいのはわかりますが、国際社会が優先的にすべきことは非武装緩衝地帯をつくったり、飛行禁止区域を設けることであって、軍事行動ではないはずです。

 

 アメリカの攻撃が開始される前にこれらの想いをまとめようと居ても立ってもいられない気持ちで書いたので、粗い論調になってしまいました。

心ある人たちとシェアできれば幸いです。

私的・情報の読み方

いわゆる「投射型思考」の問題

 「投射型思考」

  ぐぐっても出てこないが私の造語ではない。黒田寛一の造語である。どういうことか? 人間はある思い込みが形成されると、その思い込みを現実に当てはめようとする。事実から出発して思考するのでなく、観念から出発して思考するようになる。観念の現実への投射を「投射型思考」というのだが、それだけだったら否定すべき事ではない。世界の実体といえる自然的事実が存在するのかどうかは古代から哲学のテーマであり、現代に至っても決着はしていないからだ。

 むしろ、哲学は実体よりも観念や解釈に重きを置く方向で発達してきた(と私は思いたい)。ただし、すぐお気づきのように、事実を無視した観念や解釈は限りなく創作に近く、創作に近いものを「ニュース」「報道」「ジャーナリズム」と呼ぶことは出来ない。

 

 事実は透明である。

 

 しかし人間は透明なものに色をつけずにいられない。

 

 それが「解釈」「観念」あるいは「洗脳」である。

 

 私はジャーナリストではないので自ら「ニュース」を発信しようとは毛頭思わない。ただし世界の出来事にコミットしたいという気持ちは強く持っている。特にここ数年シリア内戦に心を動かされ、主にSNSのフィールドでいわゆる「情報」を「発信」したり「拡散」したり「議論」したりしてきた。特に主義主張があるわけではなく、単純に現地発信の「響く言葉」に憑き動かされてきただけだ。

 それでも、現在進行形の戦争へのコミットメントなので、私が発信することが創作であってはならない。ということは、現実へのコミットメントにあたっては投射型思考を排斥しなければならない。前置きが長くなったが、「フェイク」を掴まされないっための私論が本稿のテーマである。

 

「リベラル」が独裁者を擁護するパラドクス

 そこで気になることがある。私はシリア内戦についてはアサド政府に批判的である。これにはまた理由があるが、本稿は政治がテーマではないので深入りしない。日本でアサド政府を自覚的に批判する人は少ない。なぜかといえば情報量が圧倒的に少ないからで、反政府派もいなければ政府擁護もいないというのが実情だろう。そんな中でもツイッターでは、内戦が悲劇的様相を深めるにつれ、関心を持つ人が増えてきた。

 そのような人の中でアサドに批判的になる人が少なからず、いわゆる「リベラル」「護憲」といった日本の政治の色にあんまり染まっていない事も注目すべきところだ。

 逆にアサド擁護派もいる。とても興味深いのは、アサド擁護をコアに主張する人たちのほとんどは、日本の政治の色分けでいうと「リベラル」「反安部」「護憲」「左」という人たちである。護憲派が独裁政治を擁護するというのはなかなか理解じがたいが、これにも理由がある。繰り返すが本稿は政治がテーマではないのでそこにも深く立ち入らない。

 ただし、思考マターでいうと、リベラルが独裁を擁護するというのは典型的な投射型思考だということだ。非常にシンプルなロジックを自らの思考に強固に組み付けてしまい、そのロジックから現実を解釈する。21世紀最悪といってもよい内戦の一方的な加害者である独裁者を、「戦争反対」を唱える人が擁護してしまうのはつまりそういう事だ。古い言葉だが「ソ連の核は良い核だ」という言葉が昔の反核運動で公然と言われた。それと同じ事である。

 

いわゆる「誤訳」の問題

 前段を引き継いで何を言いたいかというと、現実へのコミットメントにおいて投射型思考は許されないということである。私自身が、またアサドに批判的な人たちが、同じように自らの脳内のフレームで現実を切り刻む事をしてはならないという事だ。

 そこでちょっと気になることがある。

 シリアの現地情報は極めて稀な例外を除いてアラビア語かフランス語か英語で発信される。私がアラビア語が出来ればいのだが、かろうじて英語の字面を追いのが関の山で、依拠するのは英語が出来るシリア人が発信している情報である。それでもそこに肉声があり、響く言葉があったから私はシリアを追い続けた。そして日本でシリアのアサドに批判的な人に心を寄せる人もまた多くが英語情報に依拠している。

 で、現地ツイートを和訳する人が増えているのは嬉しい一方、皆さん誤訳が少なくない。ネイティブの英語じゃないから? それは違う。シリアで英語を使う人はエリートなので、アメリカ人のグダグダした英語よりよっぽど教科書的でわかりやすい。で、誤訳すると文脈が違ってくる。

 これは良くない。

 一例をいうと「No less than 485,000 People Displaced from the Suburbs of Hama, Idlib, and Aleppo 」というツイートがある。直訳すれば「48万5千人を下らない人がハマー、イドリブ、アレッポから住む場所を失った」なんですが状況的にその地域でいきなり48万人もの人が難民化することが考えにくい。ツイートのリンク先をたどると原文は485,00と記されています。一桁違うし、桁区切りが違う。その時点でこの情報の信頼性は失われます。でもこうしたことがそのまま日本語になって追認されていることがまぁまぁある。そうなってしまうと、反政府派の情報発進もアサド擁護派のプロパガンダと大差なことになってしまう。

 

情報の文脈を把握する

 ではミスリードを避けるためにどうすればいいのか? 私は報道を職業としていませんので「両論併記」とか「裏を取れ」とか、そういったことはどうでもいいです。でも、「現実」には立脚したい。ウソは言いたくない。

 でも「裏を取る」ことなんて出来ない。シリアは地球の裏側だし、私は平凡な会社員で毎日仕事してるし。

 事実の確認は無理だ。誰かやって欲しい、切実に。でもおそらく日本のジャーナリズムに期待できない、残念ながら。

 出来ることは二つ。

 一つは文脈を読むこと。前後関係からいってありえないものを排除すること。48万人の移動に一体バスが何台必要なのか? 誰がそれを手配するのか? 結論、ありえない事を判断できること。

 もう一つは…

 

 響く言葉。

 

 届く言葉。

 

 それ以外いいようがないんだけれども。でも、泣いている人が書いている文は「あぁこの人は泣きながらこれを書いているんだな」とわかる。

 私がシリア内戦に関心を持つようになったのは現地の人の泣きながら(としか思えない)ツイートの数々に触発されたからに他ならない。

 

 だから私も、無力ながら…届く言葉で…応えたい。

 

 

 

 

 

安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから

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私は「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」という原爆慰霊碑に刻まれた言葉は、被爆国国民としても、一人の人間としても尊いものだと思う。 かって慰霊碑の正面に立った時は感動で身体が震えたものだ。人類の共通の財産とはこういう事なんだろうなと沁みじみ思った。

 

Never again ? Ever more again and again and again

これはグータ攻略激化の中で英語圏の誰かが SNSで発信した言葉だ。

「二度と繰り返しませぬ? 繰り返してるじゃないか。これからも繰り返すじゃないか」

天安門で、ユーゴで、ルワンダで…。 ヒロシマアウシュビッツは繰り返された。

 

「過ちは繰り返しませぬから」は今やシリアで繰り返されている。 にも関わらず多くの「繰り返さない」筈の日本人の中でシリアの虐殺に関心をよせる人は少ない。 シリアの政治が複雑で理解しにくいかもしれない。公式報道が少なすぎるかもしれない。 それにしても…。

 

「繰り返しませぬ」の基盤は犠牲者の血で贖われた体験と記憶だが、体験も記憶も風化した時、血肉なき概念だけが残る。 語弊を恐れず言えば、日本人の平和意識は風化して欺瞞が蔓延っている。改憲や集団自衛権行使に反対して政治を論じる人はいなくはないが、人道危機を訴える人があまりに少ない。

 

人道危機というのはルワンダやユーゴの内戦に際して良く使われた言葉だ。民族や宗教の対立など政治状況が複雑で、政治党派の行動が正義とかけ離れていても、天から与えられた権利として人権は守らなければならないという考え方である。そして人道危機にあたっては国際社会が協力して解決しなければならない。

 

米軍機が青森の湖に燃料タンクを落とした事に大騒ぎする人がなぜ、同じ時間にシリアで独裁者が市民にミサイルを雨のように降らせていることを批判しないのか?

「繰り返しませぬ」?

繰り返しているじゃないか。

今、起きているじゃないか。

「繰り返しませぬ」ためにいつ何をどうするつもりなんだろか?

 

もとより私は直接の戦争体験者ではない。 だが数年間シリア内戦の現地の人々の情報発信に接してつくづく思うのは、戦争っていうのは昔も今も全く変わらないよな、という事だ。 日本軍の三光作戦とアサドの都市封鎖は似ている。B29の市街地盲爆とロシアによる無差別爆撃は似ている。

 

そこに通底するものが戦争の本質ではないのか?

なぜ日本軍が中国の村で行った事とアメリカ軍がベトナムの村で行った事が酷似するのだろうか? なぜ現代においても市民への無差別爆撃が戦略の要となるのだろうか?

戦争の本質とは何だろうか?

 

戦争の本質とは何か? 性急な答を出さなくてもいいが、わかっている事がある。 軍事(暴力)が政治(人治)を凌駕している状態である。

 

「戦争とは別の手段を持ってする政治の延長である」とは有名なクラウゼウィッツによる戦争の定義だが、同時に私達が見なければならないのは「軍事もまた政治を左右る」という事である。 そして現実は、人々がよくなる事が目的である筈の政治を、手段である軍事が蹂躙する事例が後を絶たないのだ。

 

戦争では一度始まれば軍事力学が政治を圧倒し出す事が往々にしてある。 だからホロコーストが繰り返し再現されるのだ。 シリアで今起きている事は、戦争犯罪者でありシリアに大きな人道危機をもたらしている当事者としてアサドとその支援者を糾弾しないならはまた別の形を纏って地球のどこかで再現されるだろう。

『性暴力の理解と治療教育』ノート

f:id:jikujizai:20180127190143j:plain(藤岡淳子著/誠信書房

今回記すのは書評ではなく、表題の書についてのただのノートだ。

性犯罪加害者の再教育を担ってきた筆者が本書にまとめた「性犯罪」「性犯罪加害者」の捉え方を私なりに拾い出した。

「書評」でなく「ノート」だと断ったのは、後述する筆者の「性犯罪」観が、男性社会が営々と創り上げてきた「性」の常識を覆すものであり、だから、まともに向き合うには大きなエネルギーを必要とするからだ。

今の私には本書の提起を「評論」する器はもとより無い。以下に本書の論点を祖述するにとどめる。

問題提起

性犯罪への世間の誤解を正す。誤解とは、

①性犯罪を性欲の発現としてしか捉えない。

②厳罰の要求はあっても教育更生の必要性や方法論を理解しようとしない。

 

回答

①性犯罪は「性欲の発現」でなく、支配欲求・承認欲求にもとづくものであり、その動機は心理的である。

②性犯罪者は厳罰・隔離すべきでなく、教育・更生すべきで、それは可能である。

また、性犯罪者の多くは被虐待者である。

③性犯罪者である事を克服することは出来ない。性暴力は反復される。しかしそれを行動ベースで克服することは出来る。行動での克服とは自らのスリップに気づき自己規制することである。

 

補記

性犯罪者は「常に」自らの犯罪を自己合理化する。また、性犯罪者は犯罪行為の習慣化を認めない。

逆にその事を認め始めた時、はじめて改心が始まる。同様に、性犯罪者自らが被虐待者であった事への気づきも重要である。

 

所感

以上、ごく簡単に本書の論点を拾い書きした。

本書では「スリップ」という言葉がしばしば表れる。心理学でいう逸脱行動だが、性犯罪者の事例でいうとそれは特有の性的指向にまつわる妄想を指すようだ。

スリップは妄想から始まる。自慰する時の妄想の内容すらその人間の認知を形成するという訳で、性暴力・性犯罪の抑止のためには性意識の在り方を問題にせざるを得ないという事だ。

感情が思考を形成し、思考が行動を導く。性暴力行動の深淵は、男たちが性欲だと錯覚している「女という他者」への感じ方、妄想の抱き方にあり、妄想だから何をイメージしたって良いというものではないところが重要である。

私達男性の妄想の中にこそ支配欲求、暴力欲求の根源が潜んでいるというべきなのだ。それらは、物心ついた時から「男らしくあれ」という抑圧により繰り返し繰り返し私達の深層に刷り込まれてきただけに、克服するのは簡単ではない。

男女差別が人間にとって最大の、そして最後の差別であるならば、男性にとって自ら「男」と批判的に向き合うことは必須であると私は考える。またそのベクトルは私自身に最も強く向けられなければならない。ただし、それは言うほど簡単ではない。

興味を持たれた方、特に男性はぜひ本書を一読されたい。

 

 

箴言

 

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男たち:計算高く、ある人々は理知的ですらあるがいつも勘違いしていて、見込み違いが激しい。

女たち:情念をぶつけあっていつも傷ついている。

人間:つねに過去に縛られ、きっといつかと同じ失敗を繰り返す。