時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

『闇の奥』解題

いわずとしれたコンラッド著『闇の奥』を分析批評します。

 

【論点提起】

19世紀末(20世紀初頭)に書かれた本作はニーチェら「生の哲学」の影響を色濃く受けていると思われ、世紀末的時代の頽廃的雰囲気を漂わせている。(『闇の奥』の出版は1902年。コンラッドコンゴ河で象牙採取船の船長だったのが1890年~91年)。そこでは産業資本主義の勃興が一段落した時代背景にあって、思想界、芸術界に表れ始めた近代への懐疑が胚胎している。何かに憑りつかれたようにアフリカに向かった青年がそこで出会う当時の資本主義(帝国主義)を代弁するビジネスマンたちとは相いれないスケールをもったクルツという男。そしてクルツを怪物として目覚めさせたアフリカというwilderness(荒野、原生)。本作は読み解きにくいと評されることも少なからずあるが、シンプルかつ骨太い近代への警句である。にもかかわらず20世紀後半、アフリカ各地で植民地からの独立が相次ぐようになると、ポストコロニアルの文脈で批判的に読まれることが少なくなくなった。

本論の要旨は、『闇の奥』本文の文脈を押さえなおし、ポストコロニアル批判が誤読であることを指摘しつつ、20世紀後半以降の時代特性によってそのような読み方が広まった背景にも内在し、『闇の奥』の時代的限界ついても触れていきたい。

 

【藤永訳あとがきについて】

まずはポストコロニアル批評の典型として、藤永茂訳本(三交社刊)のあとがきについてみていきたい。藤永あとがきの中で主論となっているのはポストコロニアル批評のきっかけとなったアチェベによる『闇の奥』批判と、アーレントによるナチズム批判における『闇の奥』援用である。ナイジェリアの文学者アチェベとユダヤアーレントでは立場は異なるものの、コンラッドが描いたのは「野蛮」だとしている点で共通している。

アチェベはコンラッドを「べらぼうな人種主義者」と呼び、アーレントは『全体主義の起源』のボーア人論でクルツ現象を敷衍し「人類は未開の野蛮部族を目のあたりにしたときの驚愕をたとえ知っていたにせよ、個々の輸入品としてではなく大陸全体に蠢く住民としての黒人を見たときのヨーロッパ人を襲った根源的な恐怖」(『全体主義の起源』)の反映としてクルツを捉えた。クルツのヨーロッパ文明を超越した説明困難な生命力をアフリカの野蛮に影響を受けたものだと論じた。

アチェベとアーレントはメダルの裏表のようなものだが、ヨーロッパ文明とアフリカの野蛮の二項対立にのっとって、文明が見た野蛮=闇として『闇の奥』を読みこんでいる点では同じである。そしてここに誤読が生じている。

 

【『闇の奥』のモチーフにおける対比と対照】

コンラッドは「文明と「野蛮」を対立させているのか?本文に表れるモチーフを検証しながら検討していきたい。『闇の奥』にはいくつかの代表的なモチーフがあるが、それらをどう対比させ、あるいはアナロジーさせているかを見ていくことにより本文の主題は明らかになるはずだ。

まず、対立させているモチーフとして「畜群」と「超人」がある。

畜群とはニーチェが『善悪の彼岸』などでも用いた付和雷同する群衆を軽蔑する概念だが、本作では植民者ベルギー人の官吏たちの俗物さとして際立って描写されている。

たとえば、典型的な植民者であるコンゴ中流の中央出張所(地名は匿名だが現キンシャサ、当時のレオポルドビル)の支配人は次のように書かれる。「朝から20マイルは歩いてきた僕だったのに、座れともいわないのだ。顔色も、容貌も、身のこなしも、声も、平々凡々とした男だった。(中略)なんとも言えない、かすかな唇の動き、どこか、ずる賢そうな薄笑い‐いや薄笑いというのでもない」(『闇の奥』藤永茂三交社版P58-以下引用は全て同書)

これら平々凡々とした植民者のモチベーションが本国本社に認められて地位や権力を得るという俗物的なものであるのに対して、それらとは相いれないものとしてコンラッドが対比させるのが超人であり、超人の体現者としてのクルツだ。

超人とはやはりニーチェの意匠であり、畜群の反対概念である。なぜ生まれてきたのかの意味さえつかみにくい人生、虚無に陥りやすい人生を自らの意思に立脚して行動する人間のことだ。少し長くなるがクルツについての描写をいくつか引用する。

「ひとりっきりの白人の男。突然、本部に背を向け、交代することを拒み、おそらくは、家郷への思いをさえ断ち切って、未踏の自然の深奥を目指し、誰もいない荒涼とした出張所目指して帰って行く男」(P87)

「足の赴くまま、心の赴くままに、どこにでも行ってみようと決心した男が、孤独を潜り抜け、寂寥に耐えて、初めて踏み込むあの原始の地帯の異様さが、君らに想像できるはずがない‐お巡りなどひとりもいない完全な孤独-人々の意見を小声でそっと警告してくれる親切な隣人などひとりもいない完全な寂寥を経て、はじめて到達できる土地なのだ」(P130)

「彼の上にも、彼の下にも、何も存在しなかった。それは分かっていた。地を蹴って空に舞い、自分を解放したのはよかったが、この男ときたら!立っていた大地まで粉々に蹴りくだいてしまったのだ」(P174)

この「畜群」と「超人」の対比に照合するものとして、「資本主義的合理性」と「wilderness」の対比があげられる。これをコンラッドは土地の描写を通じて表現している。

まず、資本主義的合理性の象徴としてブリュッセル(作中では匿名都市)は「白く塗った墓をいつも連想させられる都市」(P29)として非人間的な冷たい場所として書かれる。そして、中央出張所のあるレオポルドビルは「やっていることの全体が、慈善事業でもあるかのような表向きにしろ、運営管理や仕事の装いにしろ、すべてが現実離れ。唯一の現実的な感情といえば、何とかして、象牙が集められそうな交易所の一つにでも任命してもらって、そこで交易の手数料を稼げるようになりたいという欲望だけだった」(P66)と書かれているように、そこにぶら下がる植民者たちの俗物ぶりと照応している。

ブリュッセルやレオピルドビルの雰囲気を形成しているのが資本主義にもとすく計算や欲得だとしたら、それに対比されるのが本作の通奏低音である「wilderness」である。

「植物たちの巨大な壁、幹、枝、葉、大枝、花や葉の綱、溢れんばかりに生い茂り絡まりあったその塊が、月の光のなかに凝然として、声なき生命の襲来のように押し寄せる植物の大波が、積み上がり、波頭を高くもたげて、今にも入り江に雪崩かかって、取るに足らぬわれら人間どもをひとり残らず、そのしみったれた存在から洗い流してしまうかと思われた。もちろん、それはビリとも動かない」(P81)

そして重要なのはwilderness(荒野、原生)がクルツに与えた影響である。

「荒野のほうは早くから彼を見抜いていて、言語道断の彼の侵入行為に対して、恐ろしい復讐を仕掛けてきたのだった。荒野は彼が知らなかった彼自身の実態について、彼に囁きかけてきたのだと僕は思う。-そしてその囁きは抗い難い魅惑に溢れたものだった。彼の心の中空は空洞だったから、その囁きは空洞の中で大きくこだましたのだった」(P153)

「彼(クルツ)を残忍非道で豊かな胸に引き寄せようとするかのような荒野の呪縛を、何とか破ろうとした。この呪縛だけが、森の果てに、叢林の中に、篝火の輝き、太鼓の鼓動、そして妖気迫る呪文の唱和の方へと、彼を駆り立ててやまなかったのだと僕は確信した。この呪縛だけが彼の反逆的な魂を巧みに欺いて、人間に許された願望の限界を踏み越えさせたものに違いない」(P173、傍線筆者)

以上を通じてわかるように、コンラッドは肯定的な文明と否定的な野蛮を対立させているのではない。対立させているのは資本主義的合理主義(懐疑的な近代)とwilderness(根源存在としての荒野、原生)であり、また、近代的群衆である畜群と、根源的意志に生きる超人である。

そして、必然的にコンラッドはwildernessを本来ヨーロッパにも存在していたものとしてアナロジーを展開する。「テムズ河」と「コンゴ河」である。

語り部のイギリス人マーロウが後日談を語る舞台である19世紀末(20世紀初頭)のテムズ河。本作の主要な舞台であるコンゴ河。これらをつなぐものは何か。

「僕は大昔の事、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ‐ついこの間のようにね。 砂州、沼沢、森林、蛮民、-文明人の口に合うものなどほとんど何もなく、テムズ河の水のほかには飲むものもない。ファレリノ・ワインなどはさらさらなく、陸に上がっての楽しみもない。あちらで、またこちらで、まるで干し草の大束のなかの針みたいに、荒野のなかで消息を絶つ野営隊もあった。-寒さ、霧、嵐、疫病、流浪、そして死、-空気のなかにも。水のなかにも、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。兵士たちは蠅のように死んでいったに違いない」(P19テムズ河について、傍線筆者)

「だが、その中に格別に際立った一つの河、地図でもよく目を引く大きな河があった。とぐろを解いたでっかい大蛇のような恰好をしていて、その頭は深く海にのめり込み、胴体はだだっ広い地域にまたがるカーブを描いて横たわり、その尻尾は、深い奥地のなかに姿を消していた。 小鳥がーおろかな一羽の小鳥が蛇に魅入られてしまったように、僕はすっかりその河のとりこになってしまったのだ」(P25コンゴ河について)

「河筋は、僕らが進む前方には開けていったが、船が過ぎた跡は、また閉ざされてしまう感じだった。それは、まるで、森がのっそりと河の流れに踏み入ってきて、僕らの帰りの路を塞いでしまうように見えた」(P96コンゴ河について、傍線筆者)

「沖合いには黒々とした雲の土手ができていた。地の果てまでも続く静かな水路が曇り空の下を暗然と流れ‐途方もなく大きな暗黒の奥まで通じているように見えた」(P203テムズ河、傍線筆者)

傍線箇所を読めばわかるように、コンラッドはwildernessをヨーロッパの中にも認めている。

さらに、クルツに対して語り部マーロウは「野蛮の象徴」「文明の堕落」として否定するのでなく、その超人的ありかたにシンパシーを抱く。

「クルツの数々の言葉は、少なくとも僕の心の耳には、その背後に、夢のなかで聞く言葉、悪夢のなかで語られる語句のような、恐るべき暗示を含むものとして聞こえてきた、そう、魂だ!」(P174)

ブリュッセルに戻ったマーロウはそこで再び畜群を目にする。

「あの墓のような都会に帰り着いてみると、人々は街の通りをせわしなく行き交い、お互いに些細な金をくすね合い、悪評高い地料理をむさぼり食い、からだにさわりそうな地ビールをがぶ飲みし、下らない愚にもつかぬ夢を見ている、そんな大衆の様子にほとほと嫌気がさしてしまった自分を見出したというわけだ」(P186)

このように文脈をおさえていけば、『闇の奥』は文明対野蛮という二元論で構成されているものでないということが明確になるだろう。コンラッドは根源的な原生と、そこに育まれた意志によって生きる人間を描きたかったのだ。

 

【闇の奥の限界】

以上を踏まえたうえで、『闇の奥』の限界についてもおさえておきたい。というのは作品が書かれた時代特性や、作者の背景をなす社会や文化のパースペクティンブによって現代のポリティカルコレクトネスに抵触する部分が生じざるをえないからである。『闇の奥』はどちらにしても「19世紀末という時代」に「イギリス人」によって書かれた事実、そしてコンラッドの視角の範囲から自由ではないのである。

たとえばこれまでみてきたようにコンラッドは〈産業資本主義(帝国主義)〉と〈wildernessを19世紀末に体現しているアフリカ(ひいては黒人)〉を反対概念として対比させている。おわかりのようにこれはアフリカに対する乱暴なステレオタイプ化だといえる。このステレオタイプは進んだ文明対未開(野蛮)という図式に容易に転換しうる。事実として『闇の奥』には名前がつけられた人格としての黒人は一人も登場しない。先に見てきたようにコンラッドは〈アフリカ〉と〈wilderness〉をアナロジーさせ、wildernessたるアフリカで超人へと覚醒したクルツを肯定的に描いている。つまりコンラッドにとってwildernessは否定的文脈での野蛮ではないのだが、そのような芸術的モチーフとしてアフリカを援用(利用)したばかりに、そこにいる人格としての黒人を捨象しているのである。

それはポストコロニアル批評がいうような短絡的な黒人差別ではないのだが、白人の登場人物たちが良きにせよ悪しきにせよ人格として描写されているのに対して黒人をあたかもオブジェのように「モノ化」しているとの誹りを免れないだろう。

そのような限界性を内包しつつも『闇の奥』が文学史に残る大著である事実は揺るがない。なぜなら本作の主題である〈近代への懐疑〉はそのまま現代のわれわれの内臓を抉るからである。

 

『誉れの剣』解題

イーブリン・ウォー著『誉れの剣』を読んだ。

最近他でも続いている、日本語に訳されていなかった大型名作の待望の翻訳である。

白水社版・小山太一訳)

 

まず著者について。1903年生まれ1966年没。自らが所属したイギリス上流階級の描写を得意とし、また離婚後に入信したカトリックである。第二次大戦に従軍し、その体験をもとに『誉れの剣』を書いた。

そして本書『誉の剣』について。ガイ・クラウチバックというカトリックの没落貴族を主人公とする第二次大戦開戦から末期までの一貫した物語だが、発表時期によって3部作となっている。第一部『つわものども』では戦争初期、陸軍に志願した主人公が軍人らしさを身につけ、前線へ赴くことを待望するまでが書かれる。第二部『士官たちと紳士たち』ではナチスドイツとイギリス軍の間で激戦となったクレタ島攻防戦が主要な舞台となっている。第三部『無条件降伏』ではクレタ島から生還したガイが内地で失意の日々を送りながら家族間のさまざまな出来事を経験していく。

 

さて、では以下に本書の主題、プロット、人物を分析しながらこの希代の名著をより深く味わっていきたい。

 

①メタファー「剣」から導かれる主題

タイトルとなっている『誉れの剣』の「剣」。読む進むとわかるのだが、このメタファーには三重の意味が込められている。

まず第一に、誇りと高潔の象徴として。第一巻(つわものども)13ページ以降、ガイが従軍の決意とともにイングランド出身の十字軍戦士サー・ロジャー・ウェイブルックの墓を詣でるくだりがある。ロジャーの墓にはかれの剣が飾られている。ロジャーはエルサレムに辿り着くことなく、イタリアで客死したがその剣は自己犠牲と信仰の証であるように思われる。そしてそれはガイの深奥の信念と深くつながっている。

第二に、男性の性的メタファーとして、つまり願望としての全能感や支配欲の象徴として。いったい、ガイほどみっともない主人公もそうそういない。没落貴族にして寝取られ主人、跡取りもおらず才覚もなく、彼の代で名家クラウチバック家は消滅する必定にある。この、ガイの精神的インポテンツ感はさまざまなエピソードで描かれる。軍入隊早々の骨折、本人の意図に反して軍幹部からは再三にわたり前線指揮を外される。妻の浮気があり、そして再開した妻から肉体関係を拒絶される。戦争後期、ひょんなことで念願かなって特殊部隊に配属されるも降下訓練に失敗しまたも骨折。やることなすこと上手くいかず、それを自分で乗り越える力量も持たない。そんなガイの(そしてそれはおそらくほとんどの男性たちに共有されるであろう)無能感の裏返しとして、フロイト的であるが「剣」が男性器の代替機能を果たすのである。

第三に、政治的アイロニーとして。第三巻(無条件降伏)に、戦時中のロンドンで実際に展示された「スターリングラードの剣」についての描写が幾度となく出てくる。この剣は、ナチスに侵攻されるに及び連合国の一員となったソ連への連帯を現わすものとして、英王室からスターリンへの贈り物として製作された。英王室の権威と伝統が、当初は全体主義との正義の戦争であったものにおいて、やがて共産主義との野合によって遂行されるアイロニー敵の敵は味方になっていく政治的ご都合主義と本来の目的の喪失。もちろんナチス共産主義と一体のものとして「武装した現代」としてとらえるというのはカトリックであるガイ(そして作者ウォー)のポジショニングである。スターリングラードの剣は政治的野合(共産主義と手を組んだ保守の堕落)を象徴している。

 

②プロット

筋書としては、主人公ガイの戦争を通じたオデュッセイア(遍歴譚)とみることができる。第三巻(無条件降伏)で、ユーゴスラビアでの軍務が終わりに近づくころ、ガイがロジャー・ウェイブルックの墓参りから始まった「旅」の終わりを実感する記述にもそれはあらわれている。

全編が旅になぞらえられているとするなら、ガイの没落貴族としての出自には盛者必衰の悲哀がつきまとうし、重要な副人物でるフック准将=生身の戦争屋やガイの「妻」ヴァージニアの生き方はまさに生々流転である。もともと安定性にはほど遠い人物たちが、戦争という大河のうねりに巻き込まれて、本来の自分達を一層曝け出す有様をこの物語は紡ぎ出いでいる。

ガイにとって定住地になるはずだったケニアや、隠棲の地になるはずだったイタリアとの対比において、ガイは様々な訓練地を、ロンドンを、故郷を、北アフリカクレタを、ユーゴスラビアを転々と移り住み、とどまることはない。その移動は軍隊の命令によるものなので、自ら選んだ彷徨ではないが、ノマディックな年月を通じてガイ自身の魂は彷徨する。

対して、主要人物の中では父クラウチバックだけはすでに死に方・死に場所を定めて隠棲・安息している。

総じてモラルとその周辺の揺らぎを描いており、生の不安そのものを描いているのではない。

 

③人物の対比・照応を通じた主題の炙り出し

モラルとその周辺の揺らぎが物語の全編を律動しているが、それは人物たちの造形や人物どうしの対比を読み込んでいくことでさらに明瞭になる。

まず、物語を波打たせているモラルと揺らぎを抽出してみる。

・貴族の血統の栄華と没落

・カトリシズムの倫理と世俗や共産主義全体主義といった「武装せる現代」

・肉体と魂

不能と全能

・生と死

これらを人物たちはどのように具現化しているだtろうか。

まず主人公ガイにおいて。

・軍で何かをしようとする際に出花をくじかれるように骨折する(不能感)

・没落貴族の取り柄のない子弟(無能感)

・前妻に捨てられた(無能感)

・次兄の発狂(不吉、不安感)

・前線勤務を希望するが常に退けられる(不能感)

・ヴァージニアの子やユダヤ難民救済に目覚めていく(モラリストである父クラウチバックとの照応)

・リュードヴィック(作者ウォーの第二の分身ともいうべき人物)
体躯が大きい(全能感)

要領機転がきく(全能感)

ホモセクシュアル

パトロンに育成された(生え抜きの〈自由人〉ヴァージニアとの対比)

アフォリズムを日記に書きつけている(文学的才能)

上流階級の言葉使い、労働者の言葉使いを使い分けられる(言語的才能)

クレタ島での上官殺しによる自身の生き残り(原罪)

全能感の一方で原罪に苛まれ発狂寸前になる(ガイの次兄との照応)が小説を書くことで懊悩を昇華させる。

・ヴァージニア(ガイの「前妻」であり「妻」)

肉体的魅力(ガイとの対比)

性遍歴

誰にも捕捉、飼育されない(ガイやリュードヴィックとの対比)

死への願望

・リッチーフック(ガイを〈軍人〉に仕立て上げた怪人物)

暴力性(ガイとの対比)

戦場依存症

誰にも捕捉されない(ヴァージニアとの照応)

死への願望(ヴァージニアとの照応)

ちなみにフックには戦地で死んだ敵の将兵の首を切り落として持ち帰るというグロテスクな習性があるが、これはコンラッド『闇の奥』のクルツへのオマージュではないかと思われる。クルツがニーチェ哲学的な「超人」であるならば、フックもまた「超人」的な人物だからだ。ちなみに小説のテーマ性としては生の不安をど真ん中で肯定して超越している『闇の奥』と、モラルと不安の間を波のように往還している『誉れの剣』では、相容れるところはない。それは、父クラウチバックを完全なモラリスト(ヴァージニア、フックとの対比、リュードヴィックとの照応)として、物語全体のアイコンにしているところからも窺えるのである。

 

『虎よ、虎よ!』のイカれぐあい

古典SFにハマっていて、アルフレッド・ベスターによる1956年作『虎よ、虎よ!』を読んだ。テレポーテーションとかテレパシーとか何やらなつかしい。文庫のカバー画が秀逸。

読み物としてはメチャ面白い。

一方で、主人公の行動原理は理解出来るが共感出来ない。女性の描き方が差別的っていうのは50年代の作品なので置いておくにしても、唯我論に振り切った人物っていうのはどうも私には馴染めない。

宇宙空間に見棄てられた主人公が見棄てた者を突き止めて復讐しようとする話。なぜ復讐するのかの省察はなく、ひたすら直感的に目的を果たそうとする。そして自らの復讐の過程で複数の重要な脇役を破滅させる。そこには動機や行動規範はなく、ただ追い求める結果があるだけ。

中盤過ぎ、主人公が未来へタイムスリップする場面、過去に主人公が破滅させた人物が主人公をとっくに許していたというちょっとしたシーンに、何というかストーリーのご都合主義を感じた。 許さないだろあの事は。

SFとしての意匠は豪華絢爛で、スッゲーと思いながら楽しく読めるんだけど、肝心の人物の葛藤の部分に入っていけない。

物語としては脱構築小説にカテゴライズされると思う。単純なストーリーのようでいて、プロットの脈絡が破壊されている。50年代の作品だけど60年代以後の破壊や退廃を先取りしている。

だから構成が勧善懲悪になっていないというのも肯ける。

それでもラストは予期せぬ形で終わり、余韻が心地良かった。

 

『サラゴサ手稿』所感

サラゴサ手稿』(ポトツキ作・岩波文庫)読んだ。上巻はめっちゃ濃い怪異譚だが、中巻は支配欲と愛情の葛藤だったり善悪の転倒が物語られていく。また下巻では、啓蒙時代を背景に、神と科学の関係やイスラム教の中でも虐げられてきたシーア派の内情が描かれている。

とにかく濃い。ドストエフスキーの10倍くらい濃い。ドストエフスキーポリフォニーで定式化したバフチンがこれを読んだら卒倒するんじゃないか?

そして今まで読んだどんな小説よりすごい。こんな面白い小説読んだことない。

上手くいえないが源氏物語高野聖雨月物語を掛け算して煮詰めた感じ。

宮廷小説であり、怪異談であり、世界や宗教や科学も論じている。

物語の構成でいえば、閉じた空間で世界が深く洞察されていくという点で、しいていえば大西巨人神聖喜劇』との親和性が無いことはない。それとても、登場人物のスケールや物語の意外性、奥行きが違いすぎる。

舞台は絶対王制と啓蒙主義華やかなりし18世紀前半。この時代の空気が濃く、細かく描きこまれているので時空を一気にトリップする。

主な舞台である18世紀前後のイベリア半島とは。

キリスト教徒、イスラム教、ユダヤ教その他が混淆している。

 ・上流貴族で幸福な家庭生活を送った者は極めて少ない。

・ロマや潜伏ムスリムなど国家に捕捉されない集団が多数いた 。

これらの実態が余すところなく書き込まれている。

登場人物も数多いが、その全てが半端なく尖っている。どんな小説にも出てこない人物が次から次へと表れて、斜め上をいく事件騒動を起こしまくる。

そして話のスケールがでかい。人物たちのエピソードはスペイン、イタリア、中近東、メキシコを横断して物語られる。当時のスペイン人貴族は本国と中南米を行き来するのが当たり前だった。また、ムスリムの支配層は北アフリカからペルシャを旅して見聞を広めた。ポドツキは自身の体験をもとにこれらを詳細に描いている。

背景のスケールのデカさと対極に、メインの物語はシエラ・モレナという幽谷のきわめて閉じられた空間で展開していく。そこでおこる怪異談の数々と結末のドンデン返しがまたすごい。ネタバレ絶対ダメ。

あと、物語の本筋に回収されない、主要人物とは関係ない余禄みたいなエピソードが過剰に挿入される。その一つ一つも卒倒するくらい面白い。

ポドツキはたぶん自分もその一員だった超上流貴族の悲哀と啓蒙主義への皮肉を描きたかったんだと思う。そして幾何学への言及一つとってもその内部に完全に入り込んでるところがすごい。一方でジプシー(ロマ)や潜伏ムスリムへの視線は限りなく優しい。

私は登場人物の18世紀の騎士たちのような生き方がしたい。誇りのために決闘を厭わなかった人たち。 それは中世日本の武士のも通じる。 昔の人って美しい生き方をしてたと思う。

皆さん私の事を過激派だと思ってるかもしれませんが、根はめっちゃ保守的。 礼儀礼節、仁義を重んじる。 だから中世の人々に憧れるのかもしれない。

 

ソラリスについて(スタニスワフ・レムとタルコフスキー)

タルコフスキーの『惑星ソラリス』を観たのは高校生の時だっただろうか。未来都市のロケに70年代初頭の首都高速が使われていた。『ブレードランナー』が東京の混沌をモチーフとしたのと、どこか似ている。

原作の小説『ソラリスの陽のもとに』(スタニスワフ・レム著・早川文庫)を読んだ。山脈のようなソラリスの海っていう描写を映画では表現できていなかったなどと思いつつ、映画ではバッハのオルガン曲が効果的に使われていたので、バッハつながりでグールドを聴きながら。

それにしても恒星間飛行する時代の人類が無線機に真空管使ってるあたり、古典ならではのおかしみ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』でもテレビ電話の接続に交換手使っていたりしたっけ。 いとおかし。

小説ではソラリスステーション内の科学者達のコンビネーションが丁寧に書き込まれていて、秀逸。

場末のサラリーマンみたいな泥臭いスナウト。

ファウストのなり損ねのサルトリウス。

好男子の主人公ケルビン

早川文庫版118ページ、スナウトのセリフがこの小説のテーゼといえるだろう。科学者達は、自分達を「異星との聖なる接触(コンタクト)の騎士」だと思っている。ところが、異星(他者)は自分達と同質であるどころか、自分達の想像し得ない異質な存在である。

154ページ、映画でお馴染みのハリー(ケルビンの自殺した元妻がソラリスの海の能力で甦った存在)がドアを破るシーン。映画では、ソラリスの海が科学者達の潜在意識に住む過去に傷つけた人物を物質化した「お客」の異常性を表現する最初の場面になっていて、ただセンセーショナルだったが、小説では主人公ケルビンとハリーの地球での破局の経緯を丹念に描いていて、それらの伏線の張り方が念にいっているので涙が溢れてくる。

278から282ページ、やはりスナウトがこの作品の問題の核となるような長セリフを語る。映画でバッハのオルガン曲が流れていたのはこのシーンではなかっただろうか。

酔っ払ったスナウトによる、主知主義への懐疑を述べるその長口上を経て、静かにクライマックスに向かっていくが、なんなんだこの圧倒的な切なさは。

最終312ページ、胸に迫るケルビンの独白。

これは、タルコフスキー版のペシミズム、不可知論とは相入れない。映画ではケルビンは地球に帰還したつもりがソラリスの海から抜け出る事が出来ていなかったというオチになっている。人間の知りえる事の限界性を詩的に表現していて、それはそれで感動的ではあった。

小説でも理性の有限性というのは重要なテーマではある。ただ、タルコフスキーがそれを詩的世界の悲劇に仕立てたのに対して、医学や生物学を学んだレムは、科学者の視線を併せ持ちながら、人類の過去の誤謬(小説の中で、膨大に蓄積されたソラリスの海の知的活動に対する誤った仮設の数々・ソラリス学として表現されている)にも関わらず、誤りを犯しながら自然や宇宙に関わろうとする営みを擁護しているようだ。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』についての小説技法的紹介

私達世代ではハマった人の多い映画『ブレードランナー』の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック原作)を今更ながら読んだ。
いろいろ感想を書きたくなったがマニアックに書き込む時間がないので、以下簡単に小説で用いられる【小道具】【動物】【登場人物】の順でノートっぽく記したい。
【小道具】
「フォークト=カンプフ感情移入度測定法」:
 人間とアンドロイドを区別する検査キット。生体の痛みの反応速度を測定。
「共感ボックス」:
キリストを彷彿とさせる預言者マーサーと融合体験するVR装置。殆どの人間はマーサー信者。
「ネクサス6型」:
最新アンドロイド。人間との区別が極めて困難。
アンドロイドを小道具に含めるか登場人物に含めるかは意見が分かれると思う。また、その是非を論じる事じたいが本作のテーマのど真ん中だと思う。
【動物】
ストーリーを動かしていくものだけで羊、フクロウ、猫、山羊、クモ、ヒキガエルなど。ただしこの中には電気動物も含まれるので、厳密に言うと小道具に含めるべきものもある。シナリオセンターでは小道具と動物を区別しなさいと教えられた。それはともかく、どれが生体でどれが電気仕掛けか自体が物語を進める要因となる。クモだけは最後まで生体か機械かわからない。
【登場人物】
リック・デッカード
映画でおなじみアンドロイドを狩る賞金稼ぎ。
ジョン・イジドア:
核戦争により生殖と知能が遅滞した「特殊者」。地球外への移住を禁じられる他、様々な差別にあっている。
フィル・レッシュ:
リックと同じ賞金稼ぎ。アンドロイドとセックスし、その後に殺す事を厭わない。
人物については、私としてはこの3人がこの物語のテーマを体現していると思っている。
リックはアンドロイドに恋愛感情を抱きかけ、それがこの物語のクライマックスへ連なっていくが、どうなっていくかは読んで確かめてほしい。
リックの妻も出てくるが、妻イーランは専業主婦で夫を家で待ち、夫に心の安寧をもたらす存在として描かれていて、現代だったら女性差別と言われかねない。
本作のテーマはずばり「人間とは何か、生命とは何か」。ネタバレにならないように私なりにそのテーマを汲み取るならば、人間とは、自分自身はもとより他の生命、世界への不安をどうしようもなく抱えている存在なんだなあという事です。当たり前だけどそこに正解は無い。
本作の発表は1968年。 人工知能の有限性を論じたフレーム問題が初めて提起されたのが1969年。この小説ではいろいろ時代錯誤の面はあるにしても 小説家の直感がいかに時代を先取りしているかがわかる。
まだ読んでいない人で興味ある人は一読に値します。

『ナビレラ』に見る韓国の圧縮された近代

『ナビレラ』は2021年に韓国で制作されたドラマ。原作はHUNによるウェブ漫画で、ドラマでは主人公の老人ドクチュルをパク・イナンが、副人物の若きバレエダンサー、チェロクをソン・ガンが演じている。安定した老後を送るはずの老人男性がバレエダンサーを夢見て自己実現する物語である。

 

70歳という年齢の制約や、「男がバレリーナを目指すなんて」という世間のジェンダー的偏見に囚われず、自らに忠実に自己実現を果たしていく主人公ドクチュルの姿を軸に、家族やバレエ教師など周辺の人物たちも自分らしさを取り戻していく物語。
何よりも、この物語の後半の展開の核となる、とある宿命を負ったドクチュルと、挫折を乗り越えダンサーとしてエリートコースを踏み出したチェロクとのラストの再会のシーンが美しい。
この物語では、主人公は逆境を乗り越えて成功(自己実現)を獲得し、なおかつ、それでも逃れることの出来ない宿命を受け入れていく。人生とは絶えることのない葛藤の過程である事を訴えかけてきて、ドラマを通じてそのカタルシスが十分に得られる。

 

ところで、ここでは高齢男性が主人公となっている事の背景を少し掘り下げてみたい。なぜなら、韓国でも日本と同様に高齢化が進んでおり、ドラマでも高齢者の生き方の多様化を賞揚しているが、そんな個人の生き方の多様化と家族制度が(ドラマでも描かれているように)時として衝突するためである。
韓国で転換期にある家族制度が本作品でどのように反映されているだろうか。
主人公ドクチュル夫妻には3人の子供がいる。長男ソンサンは大手企業に勤め、成功者といえるが娘のウノは一人っ子である。長女ソンスクは結婚しているが子供はいない。次男ソングァンは未婚で、やはり子供はいない。
つまりドクチュルのには3人の子供がいて、ここまでは人口構成はピラミッド型だが、孫が一人しかおらず、ここにきて人口構成は強烈な紡錘形となる。
長男ソンサンの妻エランは専業主婦になってキャリアを失った事に心の傷を負い、優等生の孫娘ウノは父親の望む大企業への就活に挫折し、親の望むままに生きてきた事を後悔する。次男ソングァンは外科医でありながら他者の生命と向き合う重さから医師を辞めようとする。
それらの描かれる家族関係や個人の生き方は、圧縮された近代の結果だといえる。
圧縮された近代とは、近世まで封建制だったが、経済社会を急成長させるために急速に近代を受容せざるを得なかった東アジア近現代共通の現象である。
圧縮した近代においては経済的、社会的、あるいは文化的な変化が、資本の論理と商品経済の浸透による生活の個人化をもたらす。そこで起きる個人化は西欧的な思想としての個人主義自由主義を内包していない(注)。
圧縮された近代においては旧来の家族関係が再構成され、外形的な脱家族化、個人化を余儀なくされる。
そして『ナビレラ』は、すでに崩壊しはじめている家族制度を作品として表現している。

 

『ナビレラ』ではドクチュルにはバレエダンサーとしての自己実現だけでなく、過酷な宿命が待ち受けていた。だが、それだけでなく、圧縮された近代がもたらした共同体の崩壊が要因となって、ドクチュルの子供や孫たちの将来も形を変えた宿命が待ち受けているだろう。そしてそれは単線型のサクセスストーリでは描き切きれないものとなるだろう。


(注)京都大学学術出版界『親密圏と公共圏の再構成』第1章 「個人主義なき個人化-【圧縮された近代】と東アジアの曖昧な家族危機」(張 慶燮/筆)にもとづく。