時空自在

50代新人類のそっと伝えたい話

韓国ダークツアー③ 光州

(承前)

次の日の朝早く済州から光州に空路移動した。

 

1980年光州抗争。始まった日付を以て「5・18民主化運動」と呼ばれる。
当時、私は中学二年。隣国から届く突然のニュースに驚き、それがどういう事なのか理解する事に苦しんだ。当時愛聴していたTBSラジオの深夜放送で、今は亡き林美雄アナウンサーが現地レポートを届けていたのを思い出す。
市民が軍隊に撃たれて次から次に亡くなっているとか、現地の状況を伝える事自体が命がけだとか。
平和でモノだけは溢れていた日本で育った私には、思いもつかない事だった。

 

光州事件は、その後の私の脳裏に一つの問いを刻みつけた。


「人は自分の利益にならない事に全てを投げ出せるのか?」
光州市民は、その問いを自ら発し、自ら答えを出していたわけだが。

 

抗争から39年たって初めて現地を訪れた。

 

地下鉄の文化殿堂駅を降りると地下構内にはすでに「5・18」の展示がある。光州市民にとって民主化運動がどれだけの重さを持っているのかがわかる。

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光州地下鉄・文化殿堂駅構内の民主化運動を記念する展示

 

駅から地上に出るとすぐそこが民主化広場だ。80年5月18日から抗争が鎮圧されるまで、多くの市民がここを埋め尽くした。最近ソン・ガンホが主演した『タクシー運転手』で主要な舞台となった場所である。

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民主化広場のシンボル、時計塔



民主化広場の背後にあるのが旧全羅南道庁舎。抗争当初は軍が立て篭もり、後半は市民の拠点になった。

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全羅南道庁舎 日帝時代の建築だが、当時稀な韓国人建築家が設計した

 

道庁から正面に民主化広場の向こうに伸びているのが錦南路。抗争の期間中、多くの市民やバスで埋め尽くされ、抗争3日目、軍による集団発砲で市民に多くの犠牲者を出した場所である。

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錦南路 余談だが、錦南路の地下は長大な地下ショッピングモールとなっている

 

時系列で韓国現代史の転換点となった抗争を振り返ってみる。引用する画像は全て、私が訪れた錦南路の中ほどにある、光州民主化運動記録館の展示である。

事件の第一段階は、朴正煕暗殺を受けて「ソウルの春」といわれた民主化を求める学生運動が光州に飛び火した5/18を境に 戒厳軍(空輸部隊)が徹底的に鎮圧したことによって始まった。

当時、学生運動の指導部はクーデターで軍を掌握した全斗煥の新軍部によってその殆どが予防検束されており、学生達のデモは計画的とは言い難く、多分に自然発生的なものだった。それに対して新軍部は空輸部隊に「鎮圧棒」と呼ばれたデモ対策用の棍棒を装備させて、デモの鎮圧訓練に血道をあげていた。

光州各地で学生デモが散発的に起こったことに対して、戒厳軍はデモ参加者は言うに及ばず、周りで見ている者にまで鎮圧棒を振り下ろし、衣服を脱がせて次から次へとトラックに放り込み連行していった。

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デモ参加者に鎮圧棒を振り下ろす空輸部隊の兵士

 

民主化運動は翌日19日、潮目を変えていく。学生デモへの暴圧を聞き知った市民が続々と民主化広場から錦南路を埋め尽くしていき、第ニ段階へと移行していく。19日から20日の2日間、学生のデモ参加者が次々に逮捕された後を引き継ぐように市民が街頭に溢れ出ていく。記録映画でお馴染みのバス、タクシーが列を連ねた車両デモが挙行されたのもこの期間である。20日に至り、戒厳軍に銃撃された市民ニ名が死亡し、民主化運動初の死者が出た。ニ名の市民の遺体は太極旗に包まれて黄色いリヤカーで錦南路まで運ばれた。それを見た市民たちは恐怖に慄くと同時に戒厳軍への怒りを湧きあがらせ、この事がきっかけとなりさらに数十万人の市民をデモへ駆り立てる事となった。

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街路を埋める群衆

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光州駅前で射殺された市民二名を載せたリアカーと、民主化運動記録館に展示されているそのレプリカ

 

民主化運動の第三段階といえるのは5/21 戒厳軍の発砲による大量虐殺と、それに対抗する市民軍の結成から戒厳軍の撤退までである。

市民軍の結成という事が、多くの日本人にはピンと来ないかもしれない。実際、日本史においては秀吉の刀狩り以降、民衆が権力者と同等の武器をもって対峙するという歴史的事件は一度も起きていない。光州蜂起を引き継ぐように韓国内の学生運動が燃え盛っていた80年代後半、韓国の留学生と交流した事がある。「軍がデモの鎮圧に乗り出したらどうするのか?」という私達の質問に彼は「韓国人は全員兵役を経験しているから武器を扱える。軍が出てきたら警察の倉庫から銃器を調達して戦う」と事もなげに言い放った。実際、それに先立つ光州蜂起では21日白昼、錦南路を埋める群衆への戒厳軍の集団発砲に対抗して、市民が自発的に警察署から武器を入手し、あれよあれよという間に自然発生的な民兵組織が誕生した。

武器を持って立ちあがった市民を前にして戒厳軍は拠点としていた全南道庁舎から撤退し、こうして光州市内に、束の間の、奇跡のような市民自治が実現したのである。

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戒厳軍の集団発砲により血に染まった錦南路

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市民軍兵士「なぜ我々は銃を手に取ったのか?」

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市民を激励する市民軍

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第四段階は、戒厳軍の撤退により実現した市民自治の期間と、5/27の全南道庁舎への戒厳軍の急襲による抵抗の終焉までである。

この市民自治の期間、光州市内の治安は極めて良好に保たれ、市街戦の混乱にも関らず窃盗や強盗などの犯行は見られなかったという。市民、学生は自発的に市街戦の爪痕が残る街路を清掃し、市民軍への炊き出しが行なわれた。街には負傷者への献血を訴える赤十字やデモ隊の車が走り回っていた。

この間、市民収拾委員会が結成され、軍部との交渉に当たったが軍部は時間稼ぎをする一方、全面的な鎮圧の準備を進めた。

27日未明、光州市内に戦車が侵入する。抗争報道部はこの事実を市民に伝え、最後の瞬間に備えるべきだと決定し、女性ニ名が広報車から「市民の皆さん、今戒厳軍が攻めて来ています。愛するわが兄弟、我が姉妹が戒厳軍の銃や刀に倒れています。皆で戒厳軍と最後まで戦いましょう。私達は光州を死守します。私達は最後まで戦います。どうか私達を忘れないでください…(*)」と呼びかけた。このアナウンスはそれを聴いた光州市民の記憶にいつまでも残る事になった。

戒厳軍の突入開始から1時間10分で光州市内は再び軍部に制圧された。

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検閲で真っ赤に塗り潰された新聞

 

さて・・・。

前日の済州4.3記念公園でも感じた事だが、これら韓国現代史に深く刻み付けられた史跡は、日本の戦災史跡たとえば原爆資料館や沖縄の平和の礎と似ていて、でも、何かが決定的に違う。

何が違うのだろうか。

日本の戦災史跡は、もちろん訪れる者の心を打たずにはおかない。あの有名な「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」という言葉も、多くの日本人の共通の願いを表現しているといって差し支えないだろう。

でも…。 

「繰り返しませぬ」ために何をしてきたのだろう。「過ち」とは何だったのだろう。「過ち」とは原爆を落としたアメリカの過ちなのか? そのような結末をもたらした戦争を開始した日本軍部の過ちなのか? それともその戦争に加担した、日本市民一人ひとりの過ちなのか? 戦争が悪いと唱えながら責任の所在を問う事もなく、歴史の記憶すら混濁とした意識の中に消えようとしている。

その点、韓国の歴史史跡は明快である。かって権力者により葬り去られ亡き物とされた歴史が民主化の進展とともに徐々に見直され、光を当てられている。特に光州蜂起は、80年代後半に独裁政権を打倒した民主化運動の発火点となったため、民主主義の進展を招き、韓国現代史の流れを変えた、前代未聞の市民武装蜂起として記憶されている。

日本の戦後史が「敗北を抱きしめた」ところから始まり、束の間の経済的成功以外には何かを成し遂げたとはいえない現状に比して、韓国現代史は幾多の犠牲を乗り越えて、民主主義の正当性を勝ち取ってきた。

光州蜂起には、いわゆる歴史の教科書に名前が残るようなカリスマ、英雄は登場しない。代わりに登場するのは無名の市民、学生である。

「当時の状況では、自分の生命を含む、すべてのものを捨てる覚悟がなくては、抗争に参加することはできなかった。それにもかかわらず光州市民は、少数の英雄ではなく、すべての市民の名の下に集い、一つになって抵抗し、ついに勝利を収めた。政府があらゆる手段を動員して、不純分子と暴徒による暴動というレッテルが貼られても、光州市民は非人間的な暴力への抵抗こそが、自分たちの生存権を守る道であり、正義であるという信念を持ってその道を進んだのである(*)」

 

中学生だった私の脳裏にひっかかった問いは、私の中では未だに答えが出せていない。

でも、こういう人たちが実際にいたという事が、より強く私の心に何かを置いた。

 

光州から釜山まで長距離バスで移動した。約3時間の道のりだった。

釜山から下関に向かう夜行のフェリーで玄界灘を越えて日本に帰った。いま在日と呼ばれる人々の祖先が、かって渡った航路である。
隣国との日本の本来の距離は、船で一晩。けっして遠くはない。ゆっくり海上を移動してもたった一晩で着いてしまうのだから。

遠くない、隣国との距離を噛みしめながら帰路についた。

 

記:民主化運動の経緯の記述と一部出典(*)は『5・18民主化運動』(光州広域市5・18紀念文化センター史料編纂委員会)による。

 

韓国ダークツアー②

悪天候のため1日遅れで済州島に到着した。
空は曇り、丘陵部では霧が立ち込めるほどだった。

昼過ぎに済州に着き、午後遅く済州4.3平和公園に行った。
丘の上のとても広い敷地に、1948年4月3日済州事件の数万人と言われる犠牲者を弔うメモリアルパークがある。

 

沖縄の平和の礎のような、犠牲者の氏名と没年月日が記された碑。明らかになっているだけで16,000人以上が亡くなったそうである。遺族が慰霊の際に残したと見られる、母子の名前の入ったまだ新しいペットボトルがあった。

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また、広大な公園内にはモニュメントがたくさんある。下記に記すように博物館自体が一つのモニュメントとして企図されているくらいだ。

館内にも蜂起を五感化して伝えるようなオブジェが意識的に配置されており、現代美術的にも洗練されているそれらは、記憶を陳腐化させず、見る者の内なるイメージを喚起させる効果があるのではないだろうか。

 

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『飛雪』」と名付けられた母子像。1949年1月の焦土作戦中に雪原で亡くなった実在の母子がモデル。

 

 

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名称・コンセプトはわからないがおそらく済州島のシンボルである漢拏山を背景にした様々な年代の人々。犠牲者の転生を願ったものだろうか。

 

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博物館へのアプローチにある『門柱』。鉄鋼の柱と金網の中に3万(済州事件の推定犠牲者数)個の石が詰め込まれている。

 

丘のはずれに博物館がある。美術館のような、逆円錐形の現代建築である。この形状自体が、「歴史を盛った器」をモチーフとしているそうだ。

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館内に入り、「歴史のトンネル」をくぐると、白無垢の石の展示がある。歴史の捉え方が定まるまでは文字を刻むべきでないという想いを形にしたものだ。

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焦土作戦の犠牲者をモチーフとしたレリーフの数々。

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やはり、大量虐殺された人々をモチーフとした作品。波と青空の中に横たわる犠牲者たち。犠牲者の想いの詰まったトンネルを歩いた先に未来があることを暗示しているようだ。この作品の原型となったと思われる写真と見比べてみる。

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博物館の中はあの広島の原爆資料館のような、圧倒的な展示。
修学旅行生も訪れていて、まるで『火垂るの墓』のようなタッチのドキュメンタリーアニメに見入っていた。

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ここで館内展示を交えながらざっと済州4・3事件について振り返っておく。

朝鮮半島は1945年8月15日の日本敗戦とともに日本の植民地からは解放されたが、ご存じの通り冷戦に突入した米ソが確執する舞台となり、また韓国朝鮮内部の保守派と労働党に代表される左派の分断が抜き差しならぬものとなっていった。

アメリカは親米右翼を支援して朝鮮半島南部に傀儡政権を作ろうとしていたが、労働党朝鮮半島の分断に反対していた。これが事件の大きな背景をなしている。

1947年3月1日(3・1はいうまでもなく日本占領下の独立運動の記念日)に統一国家の実現を訴えるデモに警察が発砲、デモ側に6名の死者を出す。これに抗議して、島内95%が参加したといわれるゼネストが勃発するなど島内の傀儡勢力への反発は広がっていく。

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南朝鮮労働党の勢力が強かった済州島では当時占領していたアメリカによって北部から逃れてきた青年を中心に西北青年会を呼称する極右組織がつくられ、「西青」による島民弾圧が激しさを増していった。

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1948年5月10日に国連監視下で南朝鮮単独の総選挙が実施される運びとなり済州島内左派が4月3日に島内各所で警察署を襲撃するなど武装蜂起を起こす。韓国軍が蜂起の鎮圧にあたったが、ゲリラ化して山間部に籠った蜂起勢力が完全掃討されたのは1954年になってからの事である。その間に蜂起勢力の家族や同調者と見做された島民が多数殺害された。犠牲者の数は身元が確実視されているもので1万6千名といわれているが、死者数はそれ以上としている資料が多くある。

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身元がわかっている犠牲者達の顔写真が一面に張り巡らされた通路を抜けると、展示は終了である。

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4・3平和公園は日本国内の戦災を刻んだ施設と良く似ている。
でも何かが違う。


南北分断が今も続いてる事が示すように、まだ解決していない歴史。
21世紀近くなって初めて韓国政府が謝罪した、まだ清算されていない歴史。
そして

何よりも何よりも

「戦争が(誰かが)悪かった」では済まされる事のない、自国民が、より良い世の中を求めるために、自分達の血で贖った歴史。

 

公園のある丘は、日本と同じように桜で覆われていて、霧の中の桜はとても幻想的だった。

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(続く)

韓国ダークツアー①

 

4/9から三泊四日で韓国に行ってきた。

目的地は済州島および光州。なぜその地なのか、は追って本文を読んでいただきたい。

 

成田はこんなに晴れていた。

搭乗機が何と私が20歳の時、初めて海外に行った時に乗ったボーイング747。飛行機オタクではないのだが少し興奮。同機は現在退役が進んでいるので、貴重な体験になった。

 

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ところが仁川に着陸すると雨。乗継ぎの済州便が悪天候のため欠航してしまった。
期せずして明洞に一泊することに。いつもの一人旅の習いで、ネットで地域の一番安い宿泊施設を探す。今回は57ホステル(57番地にあるためこの名前らしい)というところに泊まったが、部屋はビジネスホテルと遜色なく、大きな窓から見えるソウルの夜景が素晴らしかった。同じ景色を朝、白日の下で見たら魔法を解かれたようにがっかりしたが。

 

せっかくのソウル明洞なので外食。といってもホステルの目の前の食堂だが。これより先、韓国の外食はしごく満足させれらるものだったがその一発目がこの食堂の牛骨入りの参鶏湯。グルメではないゆえ味についての表現力は持ち合わせていないがとても美味かった。

 

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57ホステルは朝食の無料ビュッフェもついていた。ホテルでなくホステルを謳っているが、まるでビジネスホテルっぽい。朝食の食器を自分で洗うところくらいがホステルらしさだろうか。

 

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さて、このホステルの若き経営者とおぼしき青年は英語、日本語ともに流暢で、瞳パッチリ眉毛が濃い浅黒いイケメンだった。私が到着時に入口近辺でこの場所で良いか迷っているとゴミ捨てのため一階に降りてきた彼が目先の用事を置いて私をフロントに導きチェックインの手続きをしてくれた。

 

これに限らず旅で接した韓国の人はみなとても親切だった。例外は旅程の後半の光州から釜山へ向かうバスで隣席になったおばあちゃんが私が韓国語を話せないのをわかった時点で私を自分の隣から空席に追いやった事くらい。何か強い調子で言われたが韓国語がわからず、そのおばあちゃんに嫌われた真意はわからない。ただひょっとしたら空席だらけのそのバスで、指定席とはいえ狭いシートに二人掛けになるのが嫌だっただけかもしれない。

 

そんな流れで、日々徒然な事を殆ど書かないこのブログらしくなく(次回以降このブログらしくなるので)、短い旅なりに感じた韓国のあれこれを記しておく。

 

・明洞では100%近く日本語が通じる。前述の食堂のおばちゃんの日本語はニュアンスまでネイティブばりだった。もっとも明洞はそれだけ日本人が多い。その食堂にいた客は全て日本人だった。

・若者は美男美女が多い。ソウルではいわゆる韓流アイドルを地で行くような人が多い。一方で同じ若者男子の間になぜかザンギリ頭のようなヘアスタイルが流行っており、特に光州や釜山のような地方で目立ったような気がするが、これは正直いってイケていなかった。

・これも済州、光州、釜山など地方で目立ったが、高齢者、ざっくばらんにいえばジジババがなんとも言えない味を出して存在感があった。特に高齢女性の、あのチリチリパーマ、なぜ皆あの髪型にするんだろうか。そしてこれら爺さん婆さんが前述のバスで隣席だった婆さんもそうなんだが、公共の場所で物怖じする様子もなく声がデカい、態度も日本の老人の申し訳なさげな素振りと違って普通に堂々としている(ように見えた)。

・ウォンのレートはざっくりいって円の十分の一。1,000ウォン、5,000ウォン、10,000ウォン、50,000ウォンの4種類の紙幣があるが、紙幣といってもジュース一本1,000ウォン以上するので財布からどんどん消えて行く。はじめは慣れずにビビった。

・どうやら保証金文化のようで、宿泊費から交通カードに至るまで保証金がつく。50,000ウォンの宿泊に対して20,000ウォンの保証金、交通カード一枚につき500ウォンなど。損害がなければ全額戻ってくる。

・地下鉄は私が行った都市では全て整備されていた。ホームドアが完備されている。しかも、東京では地下鉄南北線でしか見ることの出来ない天井までの高さの完全遮蔽式である。これ以外にも、整備されて広々した道路網や、小さなところでは幅広で二名が余裕で横に並べるエスカレーターなど、インフラが余裕を持って整備されている。地方都市も同じ規格なので、韓国全体的に東京などよりもインフラが先進的な印象を受けた。

 

いつになく私のブログらしくなく、普通の旅行記っぽくなったがこれはプロローグにすぎない。次回以降二回に分けてこの度の主要訪問先である、済州4・3平和公園と光州民主化広場周辺について書いていく。

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成の終り③

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【人口減少】

 

 私は、経済的凋落の根本要因は人口減少だと考えている。

 

 下記リンクを一読されたい。

https://toyokeizai.net/articles/-/218313

 

 結論を言うと、今後50年から100年のスパンで1,000万人単位の移民を受け入れていかなければこの社会は崩壊する。

 日本の人口ピラミッドは、2015年時点ですでに1970年代前半生まれの団塊ジュニアが1歳児人口の倍になるなど、紡錘形から限りなく逆三角形に近くなっている。若年人口が減少し続けているので出生可能人口を母数として出生率を上げてもこの逆三角形化に歯止めをかけていくことは難しい、というより無理である。現在1.4人といわれる出生率を倍にするような施策が可能だろうか?

 

 このような現状の人口ピラミッド出生率から予測される日本の近未来については統計的な裏付けをもって確実に予測される。官僚や学識層がそれを知らないなどという事はなく、わかりきった事実である。ただしそれは、1941年時点で日本の獲得資源量や鉄鋼生産能力から対米戦が必敗であるとわかっていながら戦争にのめり込んでいったのと似て、世界を観照的に理解するのと実践的に理解するのでは天と地ほどの違いがあるのだ。

 

現在の日本社会はすでにディストピアである。

 

終末医療病棟をご存じだろうか? 各種病院から、退院させる見込みがないと判断された高齢の患者だけを集中させる病院である。そこで施されるのは治療というより延命だ。このような病院では、かなり多くの患者がいる病棟であったとしても食堂で患者のための食事が用意されることはほとんどない。。大抵の入院患者が胃ろうだからである。

また、病棟の通路は通常の病院のように患者が行き来しておらず、ひっそりしている。殆どの患者が自力で車椅子を操作することすら困難だからである。病室内にトイレが必ずしも併設されていなかったりするのは、患者達はそのような理由で身動きが出来ず、オムツを常用しているためだ。

この、未来予測型のSF映画のような光景がすでに日本のあちこちで出現している。ただ、ひっそりと人目につかないだけの事だ。

 

もう一つ。私事だが私の勤務する企業は社員数50名。その50名が一同に会したミーティングで、平均年齢30歳程度(いわゆる一昔前の男性の結婚適齢期)であるにも関わらず、その中で昨年子供をもうけたのは二名だけだった。そもそも、居合わせたほとんどが結婚適齢期であるにも関わらず、既婚者は数名にすぎない。贔屓目に見ているわけではないが、わが社の給与水準が中小企業平均中で特に低いわけでなく、労働環境が劣悪だという訳でもない。

 

日本社会がなぜ雪崩を打つような人口減少に向かっているのかの説得的な分析もきわめて少ない。

医療の発達による平均寿命の延長という逆三角形の上辺が拡大していく要素と、出生率の減少という底点の要素がキャップとなり人口構成がどんどんイビツになっているわけだが、出生率の減少については複合的な要素が絡み合っていると考えられる。

乳児死亡率低下

核家族

都市への人口集中

女性の社会進出

格差拡大

 

そして私は、前項で触れた経済的凋落は、経済学的範疇で解決できるものでなく、破局的な人口減少にもとづくという確信に近い仮説を抱いている。逆に言えば、高齢者人口の半分まで若者人口が減り、この傾向が加速している現状と未来において、どのような社会的発展が見込めるというのだろうか?

 

【結び・平成の30年間とは?】

 

一言でいえば「失われた30年」というに尽きる。

 

社会現象的には都市圏への人口集中とライフスタイルの転換、所得格差の拡大が晩婚化、少子化を抜き差しならぬものにし、若年人口と高齢人口の逆ピラミッドを恐ろしい勢いで加速させてきた。

経済的には国内産業の空洞化とデフレスパイラルによって輸出立国の基盤の崩壊と社会の多数層における所得の減少をもたらした。結果、国際競争力を著しく減衰させてきた。

政治的には冷戦の終焉と同時に国内政治の刷新や既得権の縮小を実現する機会があったにも関わらず、ビジョンとガバナンスの欠如によりその機会を悉く逃してきた。

 

これら社会・経済・政治の問題は言うまでもなく根本の部分で複雑に絡み合っている。そしてこの30年間に打たれてきた様々なスローガンの下での経済政策が悉く枝葉の対処療法でしかなかったことに賢明な人なら気づくだろう。

 

日本社会を50年、100年の周期で再生させていくためには人口構成を抜本的に変えていく事が必要である。

そしてそのためには移民国家への公然とした転換が必要である。必要なのは技能実習生制度で想定するようなmigrant(出稼ぎ労働者)を場当たり的に増やす事ではなく、日本に末代まで骨をうずめてくれるモチベーションを有したimigrant(移民)を増やす事である。単純労働の担い手だけでなく、高度人材を世界各地から誘致し、それらの人々による文化的社会的なインパクトをむしろ歓迎すべきである。

 

だって、そうでしょ?

30年間、変われなかったんだから。原発事故のような、既得権益を根底から覆しかねない危機ですら、既得権益の保身で誤魔化してきたのだから。

 

 まもなく時代は一巡りする。残念ながら30年間の負債を重く背負ったまま。そして我々のこの社会は一度焼け野原のようになってから初めて再生を始めるだろう。

平成の終り②

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(承前)

 

【日本の経済的地位の相対的低下】

 

 日本のGDPが中国に抜かれたのは2010年。現在では中国のGDPは日本の約2倍である。2050年には中国のGDPアメリカを抜いて世界最大となり、日本の約7倍になっているといわれる。

 また、1980年代~90年代にかけて世界5位以内だった一人あたりGDPは2017年には25位にまで凋落した。

 

 私が10代後半から20代前半を過ごした80年代に日本は一億総中流社会といわれ、ほぼ全ての社会的成員がある水準以上の物質的豊かさを享受し、一度昇りつめた豊かさのステージからは二度と滑り落ちることがないような錯覚を与えた。

 

大多数の人々はその豊かさを受け入れ、私のような捻くれ者だけが物質を与えられ緩慢な死に至るだけの閉塞した人生観を忌み嫌っていた。物質的豊かさとは、一種の緩慢な死なのだ、一部の神経衰弱な人間たちにとっては。

 

ところが、バブル崩壊後の不良債権問題の時期に「失われた10年」といわれていたものが、その後起こったデフレスパイラルといわれる物価下落と賃金下降の悪循環を克服することが出来ず、10年は20年となり、今や「失われた30年」となった。つまり、平成の30年はそのまま日本の経済的地位が凋落していった30年だった。

 

 失われた30年の要因はなんだったのか? 様々な議論があるが正直いってよくわからないというのが本当のところだろう。

これはおそらく経済学者にとっても同じことで、「聖域なき構造改革」だとか「アベノミクス」という、平成を駆け抜けた目玉の経済政策は、全て失敗だったと言わないまでも以下にあげるような日本経済(社会)の長期的傾向を阻止する事は出来なかったし、きっと今後もそうなのだ。

 

分析ではなく、おこった事実として日本経済(社会)の長期的傾向を下記3点にまとめてみる。これらは、30年間に起こった地殻変動と言ってよい。

 

  • 格差拡大

貧富の格差の指標とされるジニ係数は高ければ高いほどその社会の経済的格差が大きいとされ、0.4を超えるとその社会は暴動が起きやすくなると言われている。

日本のジニ係数は2016年厚生労働省発表で0.5704だった。1980年代から日本のジニ係数は増大傾向にあり、国際比較でいうとOECD諸国で下から4番目である。

粗雑な議論にならないよう付言しておくと、0.5704というのは社会保障などの所得再分配前の値であり、再分配後(税金や年金を社会保障費として各階層に分配後)のジニ係数は0.3759となり、かろうじて暴動発生ラインを下回る。つまり社会保障によって貧富の格差を食い止めているわけだが、再分配前のジニ係数が増大していっているため、産業や生産の在り方の中で格差が拡大しているのは間違いない。

さらに、日本の再分配の在り方については高齢化という側面も大きなファクターとなっている。人口の多数を占める高齢者への年金や社会保障の支出が大きい一方で、若年層への再配分は極めて貧弱である。すでに生産をやめた世代への再分配が厚いため、再分配後のジニ係数を押し下げているのだが、勤労者層への再分配が薄いため、社会を支えるべき若年層の中で格差拡大の実感が深まっているのだ。これは次回書く人口減少の要因となっている。

 

  • 一人当たりGDPの相対的下落

格差拡大というのは日本国内の内部現象であるが、GDPの減少は国際比較における日本の経済的規模縮小の指標というか、一つの目安である。2000年まで世界最高水準だった日本の一人当たりGDPは、2010年で18位、2017年では25位にまで下落した。

日本人の可処分所得も1997年をピークに下落を続け、現在は1980年以前の水準に逆戻りしている。これは当然の事ながら日本人の実収入の減少と、社会保障費など非消費支出の増大が原因である。

つまり平成30年間にわたって日本社会は生産性を下げ続けてきたという事だ。ただ、その理由が何なのか、経済学者の書いているものを読んでもさっぱり見えてこない。

規制緩和財政出動といった戦後よく取られてきた経済政策をもっても、一向に改善の兆しがない。

 

それはなぜなのだろうか? 

 

考えていくと、30年間の地殻変動を素直に直視しているとは思えず、その時々の問題に対して一見専門的な処方をするのだが、そのことごとくが場当たり的で対処療法的なものにすぎなかったのではないか? という仮説に行きつく。

 

すなわち日本経済の地殻変動というのは、2011年にはじまった貿易赤字への転落である。ちょっと待てその後日本は貿易黒字を回復したではないかという意見があるかもしれない。ただ、貿易黒字を回復させるためにとった手段は、それこそが対処療法的で、産業の構造的変革をもたらすものではないのである。

円高誘導による為替操作によって一時的な貿易黒字がもたらされたかもしれないが、国内産業の実力が向上したわけではない。むしろ、かって輸出の花形だった製造業は、多くがイノベーションに乗り遅れ、中韓に差をつけられているというのは誰もが認知するところではないだろうか。

 

以上3点はこの社会の経済の、30年の間の傾向の祖述でしかない。

 

 「加工貿易立国」という言葉がある。私達の世代が多分小学校高学年か中学校の初等の頃に社会科の授業で教わった言葉だ。海外から原料を輸入し、国内で国内製品に仕立て上げ、製品を再び海外へ輸出するというモデルである。昭和後期の日本はこのモデルをどハマリさせて、世界経済の第2位へ昇りつめていった。

 言うまでもなく、加工貿易立国は現在では崩壊している。「産業空洞化」が言われだしたのがやはり約30年前である。日本の製造業が中国に雪崩をうつように進出していったのは90年代だが、中国の改革・開放経済路線がそれを可能にし、もたらされた莫大な外貨が中国経済を一気に押し上げていったのは皮肉というしかない。

 

 産業空洞化の対策はあるだろうか?

 

 経済専門家が言うのは貿易の自由化と国内投資の増大であろうが、本当にそれで解決するのか?

 

 貿易の自由化は一部国内産業に恩恵をもたらすが、一方で中国を始めとする経済的に伸び盛りの国との競争の激化をもたらす。

 国内投資についても、東京オリンピックをめぐる批判が示す通り、現在の日本の財政状況では、列島改造計画のような国家・行政指導の有効需要の創出など望むべくもない。

  現状そして中期的未来の日本には、内需が拡大していく要素がなく、また国際的競争力に打ち勝っていけるイノベーションを起こす力もない。

 

 なぜなら、少子高齢化・人口減少という破局が現在進行しているからだ。

 

(続く)

 

 

平成の終わり

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平成、それは確かにエポックメイキングな時代だった、ディストピアへの転落という意味において…

 前回「平成最後の夏に」というタイトルでブログを書いたのは昨年の8月も終わりの頃だった。

 一つの時代の節目を振り返ってみようと気楽な気持ちで書き始めたが、30年間を振り返るのは簡単ではなく、「時代にもて遊ばれて何度も難破しかかってきた感覚や思考や罪を社会意識の変遷という脈絡の中でとらえ返していきたい」という抽象的な言葉で締めくくられたまま、本論は未完だった。

 

 今、その続きを書こうとしている。

 

 前にも書いたように、私は歴史には語り部の主観が反映されざるを得ないものと考えている。今から私が書こうとしている「平成30年間の振り返り」なるものも、記述する私自身の思い込み、決めつけ、こじつけから自由ではない事を自覚しなければならない。

 

 しかし私は、どうせ書くならそれは誰かに届くものであってほしいと願うし、出来ればその届く先は、私に同調する人でなく私の論争相手に対してであってほしいと願う。

 

 ここでは30年間のエピソードの細部にはあえて踏み込まない。

30年間の、そこに解釈の差異の生まれようもない大きな構造の変化と、それによってもたらされた社会意識の変化にのみ言及する。

 

 そこに解釈の差の生まれようもない大きな構造の変化とは、例えていえば「近年、日本周辺の地殻変動が活発化している」というような、天変地異になぞらえることが出来るような社会的変動の事である。

 それによってもたらされた社会意識の変化とは、天変地異に際してどの方向に逃げるべきかという、当事者となっている人々の思考、判断、感覚の事である。

 私には、平成の30年間の終りに私達が見ている光景は、100年単位で起こる世界の地滑りの、クライマックスともいえる動的変化に映る。

そしてここ数年特徴的だった日本人の言説の様々な現れ方は、地滑りから逃れようとする人々の断末魔の叫喚に聞こえる。

 

 そこに解釈の差の生まれなようもない大きな構造の変化とは、この(平成の)30年間でいえば、下記の3点に集約されるのではないか。

  • 1989(平成元)年に始まった、冷戦構造の崩壊(消滅といわず崩壊としたのは、世界にも日本にも冷戦構造の残滓が残っているからだ)
  • 日本の経済的地位の相対的低下、主要には2010(平成22)年にGDPで中国に抜かれた事
  • 日本で2011年(平成23)年に始まった人口減少

 これにシンギュラリティに連なるIT革命を加えても良いかもしれない。ただ、IT革命からSNSの普及による政治世論の変化は、社会意識の変化の要件であっても動因ではない気がする。AIの普及がもたらす人間と機械の境界の問題は別であろうし、それはそれで興味深いが本稿の主題とは違うだろう。

 

 さて上記3点についてその構造的変化とは何だったか? それのもたらす地滑り的影響とは何か? についてまず見ていきたい。

 本稿は「平成の終り」というタイトルでっ上記3項を1回ずつ3回に分けて掲載する。

 

【冷戦思考を抜けられない日本人(冷戦構造の崩壊とその影響)】

 

 ベルリンの壁崩壊に象徴される米ソ冷戦の崩壊について、今さらくだくだしくここで書く必要などない。

 ポイントは、冷戦の崩壊は世界的現象であるが、私達日本が位置する東アジアでは共産圏での政治体制の崩壊は起きなかったという点である。もちろん、冷戦崩壊の間接的影響は東アジアでも中国、ベトナムの改革開放への舵切、北朝鮮の孤立化と軍事的先鋭化など、旧共産圏各国に様々な形で引き起こされた。だが。

 

 政治的立場の右・左を問わず、今から書くことに物凄い違和感をおぼえる人が多いかもしれない。

 

 東アジアでは、冷戦の崩壊は共産主義諸国の内部崩壊としては実現せず、むしろ資本主義陣営内部から、開発独裁民主化の形をとって表れた。つまり、共産圏が自壊したヨーロッパとは逆の現象が、洋の東西で捻じれるように実現したのである。極東で民主化運動を経て80年代末から90年代に独裁体制が打倒された国・地域は主だって以下のごとくである。

 

韓国(1987年、民主化宣言を経て大統領直接選挙制へ移行)

フィリピン(1986年、ピープルパワーにより独裁者マルコス失脚)

台湾(1996年、初の総統民選から2000年政権交代

 

 もちろんこれら各国の民主化運動はそれぞれの社会の内部で長年に渉って育まれ闘われてきたものであって、共産圏の崩壊に呼応して発生したものではない。共産圏内部の民主化運動も、言論の自由が制限された中で長年に渉り継続されてきたわけだが、同じ70年代から80年代、東アジア諸国では、共産圏と対峙する必要から主としてアメリカの援助によって成立した開発独裁に対する抵抗運動が続けられてきた。

 これら開発独裁民主化の動きと逆に、中国・北朝鮮はそれぞれ全く違った形であるが、冷戦崩壊期を経てもなお一党独裁の政治体制を維持している。

 第二次大戦後40年から50年を経た時期に世界各地で相次いで起こった政変は、共産主義の崩壊として現れた東ヨーロッパと、開発独裁民主化として現れた東アジアではちょうどリボンが捻じれたように、逆の現象として歴史に刻まれたのである。冷戦崩壊とは、東アジアにおいては何よりもまず「開発独裁の終焉」だったのだ。

 

 では日本においてポスト冷戦時代の政治的変化はどのようなものだったか。以下、平成31年間における中央政権の変遷を見てみる。

 

 宇野内閣(1989年)自民党

 海部内閣(第1次・2次)(1989年~1991年)自民党

 宮澤内閣(1991年~1993年)自民党

 細川内閣(1993年~1994年)日本新党社会党、さきがけ等

 羽田内閣(1994年)新生党日本新党、さきかげ等

 村山内閣(1994年~1996年)社会党自民党、さきがけ

 橋本内閣(第1次・2次)(1996年~1998年)自民党

 小渕内閣(1998年~2000年)自民党

 森内閣(第1次・2次)(2000年~2001年)自民党

 小泉内閣(第1次~3次)(2001年~2006年)自民党

 安倍内閣(第1次)(2006年~2007年)自民党

 福田内閣(2007年~2008年)自民党

 麻生内閣(2008年~2009年)自民党

 鳩山内閣(2009年~2010年)民主党

 菅内閣(2010年~2011年)民主党

 野田内閣(2011年~2012年)民主党

 安倍内閣(第2次~4次)(2012年~)自民党

 ※政党連立については一部省略

 

 30年間の間に自民党以外の政権が3回現れ、首相は17人交代している。首相の在任期間平均は1.8年。ちなみに池田内閣が成立した1960年から1989年の29年間で自民党以外の政党が政権を握ったことはなく、その間首相を務めた人数は9人、首相在任期間平均は3.2年。これだけ見ても、平成という時代に、いかに政治は流動的で、不安定だったかがわかる。

 池田内閣から竹下内閣までの昭和後期約30年は高度成長期であると同時に、旧ソ連を仮想敵とした冷戦期だった。池田内閣の誕生と「所得倍増計画」に象徴される経済成長路線は、安保闘争に象徴される国民の政治的関心を逸らす狙いがあり、それは大いに目的を果たした。また、冷戦期の自民党は「同じ政党と思えない」と揶揄されたほど右から左まで多様な政治思想の持主が集まっていたが、資本主義の護持を唯一の結集軸として、分裂することがなかった。

 平成年間の政治的混乱とは何だったのか。

 90年代、仮想敵ソ連の消滅と、中国経済がまだ弱体だった事を一時的な条件として東アジアにおける地政学的な緊張が一時的に緩む。外敵が突然消滅した事をきっかけにして、昭和後期30年で培われた自民党と官僚による硬直した体制に対して、一斉に批判が噴出した。

 

 ポスト冷戦時代にあっては日本人もまた、内部体制の見直しに関心が向かっていった。その内部体制の見直しの行きつく先には、革命的変化が起こってもおかしくはなかった。

 

 「聖域なき構造改革」「自民党をぶっ壊す」というスローガンを掲げて登場した小泉政権が、旧来の政官財の既得権を破壊し、日本社会の活性化をもたらすかもしれない期待を抱かせた時期もあった。

 ところが「構造改革」「小さな政府」を目指した諸改革の時代的使命はとっくに終わってしまった。おもちゃ箱をひっくり返したような混乱だけ残して。

 功罪併せもっていた既得権益の縮小のための諸改革は社会の流動化を推し進め、東京への一極集中、格差拡大、人口減少をもたらした。

 これら社会構造の変化によって、日本社会の課題は規制緩和から大きく転換している。特に、日本社会・経済が格差拡大を基調とするようになった現在ではそれは「自由・公正・正義」の実現というフェーズに大胆に転換している。

 2009年に誕生した民主党政権子供手当や沖縄米軍基地の縮小など、社民的政策を掲げて官・財の抵抗に逢い、自らの経験不足もあって自滅していったが、あの民主党政権交代後に社民的政策に傾斜していったのはそこに一定の民意が存在していたからではないのか。

 そして今の日本人の言論的混乱の要因は、この課題を正しくとらえられない、または取り扱えないことに起因しているのではないのか。

 

 以上が平成30年間に起こった日本社会の大きな構造的変化の1点目である。日本の政治は冷戦崩壊によって、共産主義に対する防波堤としての資本主義を護持する体制という存在意義を喪失したが、それに代わる存在意義をまだ見出すことが出来ていない。

 

 そしてこの事は次回以降にのべる日本の経済的凋落、人口減少というテーマと密接に結びついていると考える。

 

(続く)

 

町田総合高校と忠生中事件

私は町田で育ちました。

 

出来れば町田総合高校の生徒達、先生方、親御さんたちに読んでもらいたいと思ってこれを書いています。

 

町総生は当然忠生中は知っているよね?

ツイッターハッシュタグ  は殴られた生徒を批判する書込が多いけど、そういう人たちにこのリンクを読んでほしい。

yabusaka.moo.jp

私は先生、生徒どちら側でもありません。

これを読んで何だかモヤモヤした人、善悪を決めるのは簡単じゃないと感じた人の身近にいます。

 

町田総合高校の今回の件と36年前の忠生中事件は、根本の原因は同じだと考えます。

勿論、時代が違うので相違点もあります。 ただし、相違するのは事件の背景であって、原因は同じです。

まず相違する時代背景はどうなのでしょうか?

①当時体罰は一般的。Y先生はナイフを使ったので事件になった。

②当時、若年人口が多く地域はベッドタウンで豊かだったが、現在は少子化と経済格差が拡大している 。

③当時、SNSは無く大手メディアでしか事件を知る事は出来なかった。メディアは両者中立だった。

現代はSNSを通じ問題映像の全編が拡散、テレビワイドショーの「体罰批判」とSNSの教師擁護が激しく対立している。

それでも私は少子化や格差拡大など社会的背景、メディアの在り方は36年前と大きく異なるが、事件の根本原因は共通していると考えます。

 

36年前、事件の原因は人口過多によるマンモス校化と豊かさの弊害と言われました。

本当にそうなのでしょうか?

36年後、同じ地域で、当時若者だった50代の大人(私もそうです)の先生が、自分達世代が当時の大人に浴びせた試練を同じ様に受けている。

因縁を感じます。

 

冒頭のリンクの忠生中事件の手記をよく読んでみて下さい。

勿論生徒に非はある。刺した教師にも同情を禁じえない。

でもね、なぜ彼ら当事者生徒先生は突出した行動に走ったのでしょうか?

生徒達はなぜ、過激な暴力行為に走ったのか?

Y先生はなぜ、たった一人で、ナイフを使うという究極の自己防衛をせざるをえなかったのか?

 

周りの大人達、つまり加害者の同僚の教師達の在り方を見て何か気付きませんか?

暴力的と言っても相手は中学生で子供です。 その子供に本気で向合わず、トラブルを見て見ぬふりをする職員室の教師達。

私もこの世代の町田の中学生でした。

当時の学校の雰囲気をまざまざと思い出します。もちろん立派な大人はいました。でも、将来に夢を感じさせてくれた大人はいなかった。こういうのを現代では廚二病というのだろうね。その通りだ。でも当時は本当に中学生だったのだよ。

郊外の何不自由ない生活の中で心だけは絶望的に飢えていました。

 

あれから36年たって大人達の在り方は何か変わったでしょうか?

何も変わっていないんじゃないですか? 自分の半径3メートルしか見ようとしない人が多いんじゃないですか?

だから子供達が反逆するんじゃないですか?

現代ではその反逆はいじめや学級崩壊となって、内向きに内向きに子供達の内面を蝕んでいるんじゃないですか?

 

ここまで読んで皆さん、わかったと思います。

36年前の絶望していた中学生は、今の私達です。

ごめんなさい。

私達が変われなくて。変えられなくて。

そして町田は昔も今も変わっていない。故郷なだけに胸が痛みます。

 

でも、ちょっとだけ前を向こう。

 

町総生のみんなへ。

もしこれを読んでいたら。 殴られた生徒の個人情報を晒すのは止めよう。事件はSNSを通じた攻撃に変化している。これも一種の暴力。攻撃は相手を追い詰める。

それでは解決しないよ。

君達は正義感がある。だから彼らを潰そうとするのではなく、彼らと話し合って。

 

殴ってしまった先生へ。

私はあなたと同世代です。

あなたの行為は残念ながら教育的指導では無かった。感情を制御できなかった私闘です。

目的と手段に責任を持つべきなのが大人だとしたら、大人としてあなたは間違いを犯した。

でも間違いは誰でも犯します。

これはあなたにとって大変な試練ですが、教師を辞めないで再び立ち上がってほしいです。

 

他の先生達、親御さん達へ。

違っていたらごめんなさい。

でも、これをきっかけにして今まで以上に子供達と真剣に向き合いませんか?

子供達に「こうなりたい」と思わせる大人になっていますか?

大人達が諦めていたり、他人に何かを押し付けあったりしているだけだったら、子供達は絶望するだけですよ。

 

私も自問自答します。

このままでいいのか? と。