時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

黙想

慧能曰く

 

菩提本樹無

明鏡亦非台

本来無一物

何処惹塵埃

 

菩提樹というがそもそも菩提とは成仏の事であって樹木ではなく、

また鏡というが明鏡とは曇りなき状態をいうのであってともに目に見えるもの、手で掴めるものではない。

このように本来は一物もあり得ないのであって、そこに塵埃のように取り払うべき心の曇りも煩悩も生じようがないのだ。

 

あるいは

良寛曰く

 

花無心にして蝶を招く

 

美しく咲く花も、舞い翔ぶ蝶も、虚というには程遠いがこうすべきだとかこうしたいとかいう作為と関係なく美しく生を営んでいるではないか。

これを無心という。

 

武道で稽古の前後に行う「黙想」は、心を沈め、集中や無の境地に至れる精神状態になる事を目的にしている。

誰しもが窮地に動じない心の状態を得ることを望む。しかしそこに「こうあらねば」という作為が働くうちは、無心には程遠いという事なのだ。

 

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白扇

      

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白扇の 末広がりの 末かけて

かたき契りの 銀要

かがやく影に 松枝の

葉色も勝る 深緑

立ち寄る庭の 池澄みて

波風たちぬ 水の面

うらやましいでは ないかいな

 

 一年半振りに踊りの稽古に行った。新宿に転勤してからというものの、地元の稽古場に水・土しか開かれない浚い(さらい)に行くことは叶わなかった。

 一月に同じ市内とはいえ玉川上水に近い田園地帯からより駅に近い地域に引っ越した事を幸い、久しぶりの稽古と相成った。

 

 六年ほど続けた稽古場通いで長唄まで習うようになっていたが一年半のブランクを見越した師匠が私に申し付けたのは”黒田節”だった。踊りを習った時に初めて教わった黒田節、この初心者向けの曲をどうにかこうにか踊る。黒田節をウォームアップとして次に師匠が申し付けたのが”白扇”である。歌詞の通り、祝言をあげる若い男女を寿ぐ祝い唄である。小唄で曲は短いがシンプルな黒田節からすると難易度はぐっと上がる。果たして乗り切れるのか。

 

 所作はすっかり忘れていた。扇の返しだとか、腰の入れ込みだとか。”ここまで忘れていると思わなかった”とは呆れ果てた師匠の一言である。

 でも私は満足していた。

 ”白扇”は短いながらに序破急とでも言うべき”間”の要点が隠されていて、それが難しくもあり、一方で間が合ってくると何とも言えない恍惚感に浸ることが出来る。開始の”いよぉー”でかしらを上げ、”ポンッ”で立ち上がるあたり、また始まり近くの扇を開いて舞うあたり。あぁこれなんだよな、仕事の合間に憑かれるように稽古に通わせた”何か”とは。眩暈としか形容できない、身体と所作が合一して或る体内の変化をもたらす感覚。下手ながらも踊りたい、踊りたいと掻き立ててきた”なにもの”か。

 

 つまり私は踊ることによって、いまを極めて満たされるのである。

かってサンカと呼ばれた人々がいた

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 かってサンカと呼ばれた人びとが日本にいた。

 定住地、つまり定まった家屋をもたず深山幽谷を廻遊する流浪の民の存在を耳にした事がある人も少ないないのではないだろうか。

 柳田國男を始めとして民俗学の研究対象ともなっており、日本人の文化・習俗の”ロスト・ワールド”として郷愁をかきたてられる対象であるようだ。

 

 ところがこのサンカ、発生の起源は以外にも新しく19世紀初頭の天保飢饉がきっかけであるといわれている。飢饉により農村での生存を脅かされた貧民が、木の実や川魚で死活を凌ぐために山間部に逃れた事から、川での漁労や箕などの竹細工の製造・修理を生業とする非定住集団が形成されるようになった。

 これらの人々(地方によってサンカ、カンジン、ミツクリなどと呼ばれた)は定住集落と竹細工の販売・修理や川魚の卸を通じて接点を持ちながら、自らは決して定住せず、山間を廻遊しながら洞穴・天幕・仮説住居に居住した。

 宗門改制度によって人民の戸籍管理をしていた江戸幕府にとって非定住民であるサンカが増える事は望ましくなかったようで、「革田で追い払え」というような庄屋からの指示も出されたりした。そして明治維新後、新たな戸籍制度で国民すみずみに及ぶ租税や徴兵を施行しようとした政府にとってサンカは同化・定住政策の対象となった。

 しかし、行政の度重なるサンカ”捕捉”の試みは決して成功したとはいえない。サンカは、行政が子供を小学校に通わせるためなどの大義名分をもって住居を与えても、一定期間を過ぎると雲のように集落から消えてしまう。サンカたちの文字による記録があるわけではないので、明治期の体制側とのイタチごっこのような定住政策からの逃走の詳しい動機はわからないのだが、この窮屈な日本で、体制に飼育されることを拒んだ人々がいたという事は、何かロマンをかきたてられずにいられない。

 

 ではサンカはどのように消滅していったのだろうか。1960年代までは農村に竹細工を売りにくるサンカの存在が記録されている。彼らが足跡を消すのは70年代以降、石油産業の発達とプラスチック製品の普及と相前後しているらしい。主な収入源であった竹細工が、時代の趨勢の中でプラスチックに代替されていくとともにサンカの経済基盤は失われていった。幕藩制度の末期、年貢体制の下で生存できず定住からの逃走に活路を見出した集団は、ある技術が別の技術にとって変わられるという人間が繰り返してきた社会変動の大波に呑み込まれて姿を消していったのである。

 

 サンカは消え去った。幕藩体制の矛盾が産み出し、明治以降の近代日本の生きずらさの隙間を縫って飄然と生き続け、高度経済成長の技術革新の荒波に抵抗する術もなく霧のように消えていった。

 さて21世紀も17年を経過したこの日本。経済格差の拡大や社会的統合軸の崩壊が進む中で、サンカとは全く別様の国家権力に捕捉されない非定住民が出現する可能性はあるのだろうか?

 私は、充分あり得る、と考えている。

 

(参考文献:『放浪・廻遊民と日本の近代』長野裕典著/弦書房