『性暴力の理解と治療教育』ノート
(藤岡淳子著/誠信書房)
今回記すのは書評ではなく、表題の書についてのただのノートだ。
性犯罪加害者の再教育を担ってきた筆者が本書にまとめた「性犯罪」「性犯罪加害者」の捉え方を私なりに拾い出した。
「書評」でなく「ノート」だと断ったのは、後述する筆者の「性犯罪」観が、男性社会が営々と創り上げてきた「性」の常識を覆すものであり、だから、まともに向き合うには大きなエネルギーを必要とするからだ。
今の私には本書の提起を「評論」する器はもとより無い。以下に本書の論点を祖述するにとどめる。
問題提起
性犯罪への世間の誤解を正す。誤解とは、
①性犯罪を性欲の発現としてしか捉えない。
②厳罰の要求はあっても教育更生の必要性や方法論を理解しようとしない。
回答
①性犯罪は「性欲の発現」でなく、支配欲求・承認欲求にもとづくものであり、その動機は心理的である。
②性犯罪者は厳罰・隔離すべきでなく、教育・更生すべきで、それは可能である。
また、性犯罪者の多くは被虐待者である。
③性犯罪者である事を克服することは出来ない。性暴力は反復される。しかしそれを行動ベースで克服することは出来る。行動での克服とは自らのスリップに気づき自己規制することである。
補記
性犯罪者は「常に」自らの犯罪を自己合理化する。また、性犯罪者は犯罪行為の習慣化を認めない。
逆にその事を認め始めた時、はじめて改心が始まる。同様に、性犯罪者自らが被虐待者であった事への気づきも重要である。
所感
以上、ごく簡単に本書の論点を拾い書きした。
本書では「スリップ」という言葉がしばしば表れる。心理学でいう逸脱行動だが、性犯罪者の事例でいうとそれは特有の性的指向にまつわる妄想を指すようだ。
スリップは妄想から始まる。自慰する時の妄想の内容すらその人間の認知を形成するという訳で、性暴力・性犯罪の抑止のためには性意識の在り方を問題にせざるを得ないという事だ。
感情が思考を形成し、思考が行動を導く。性暴力行動の深淵は、男たちが性欲だと錯覚している「女という他者」への感じ方、妄想の抱き方にあり、妄想だから何をイメージしたって良いというものではないところが重要である。
私達男性の妄想の中にこそ支配欲求、暴力欲求の根源が潜んでいるというべきなのだ。それらは、物心ついた時から「男らしくあれ」という抑圧により繰り返し繰り返し私達の深層に刷り込まれてきただけに、克服するのは簡単ではない。
男女差別が人間にとって最大の、そして最後の差別であるならば、男性にとって自ら「男」と批判的に向き合うことは必須であると私は考える。またそのベクトルは私自身に最も強く向けられなければならない。ただし、それは言うほど簡単ではない。
興味を持たれた方、特に男性はぜひ本書を一読されたい。
箴言
男たち:計算高く、ある人々は理知的ですらあるがいつも勘違いしていて、見込み違いが激しい。
女たち:情念をぶつけあっていつも傷ついている。
人間:つねに過去に縛られ、きっといつかと同じ失敗を繰り返す。
3ギニー
表題の書はヴァージニア・ウルフ著、昨年10月に平凡社から邦訳(片山亜紀訳)が出版された。
原著は1938年6月に上辞された。ナチスのチェコ割譲とポーランド侵攻の狭間の時期、またスペイン内戦が戦われヨーロッパが大戦の予感に慄いた時代である。
またイギリスで女性参政権が認められたのは僅か20年前の1918年、イギリスにおいてすら女性の職業選択の自由や就学の権利がこのころは一般的でなかった。
さてタイトルの「3ギニー」は、その稀有な就業の機会で得た最初の収入を「女子学寮建替基金」「女性の就職支援団体」「文化と知的自由を護る協会」にそれぞれ1ギニーずつ寄付しましょう、というレトリックである。そのことを通じて女性の社会的地位の向上と同時に、女性の社会進出によって戦争を阻止したいという願いが込められている。
そして社会の支配秩序が経済、政治、教育、宗教の各分野において男性だけが特権的立場を独占することにより形成され、「男=社会」「女=家庭」という2つの世界に分断されてきたことが数々の事例で証明される。
興味深いのは、ウルフがこのように強固な男性の社会的文化的支配の根源をフロイト心理学に求めている点だ。女性が社会的地位を求めるたびに男性側から発せられる強い拒否感情についてグレンステッド神学博士の説を援用する。
「一般にこの問い(女性による社会的立場の要求)が検討される際に生じる強い(反発)感情を決定付けているのは、明らかに幼児性固着である。…女は『できそこないの男』だという潜在意識内の想念に従い、男は優れている、女は一般的に劣っているとする一般的見解の根底には、この種の幼児期の複合観念がある。非合理的なものであるが、これらが成人になっても残っているのは一般的であり、よくあることでもある。それらが意識的思考レベルより下位に存在していることは、それらが強い感情を表出させる際にわかる」(P228)
幼児性固着とは、成人後も感情となって表出することがありうる強い幼児的思い込みの事である。男性が既得権に固執し女性に対して排他的になるとき、その根源にあるものは論理ではなく幼児性にあるという事だろうが、差別的感情の本質をよく説明している。
現在フェミニズムではフロイト心理学は女性を男性の欠陥版として見るとして批判されることが主流のようだ(女性ライフサイクル研究所|アメリカにおけるフェミニスト心理学の歴史と展望)。ウルフは1930年代という時代的制約の中で、当時の学知の先端を柔軟に逆用したともいえる。
本書中にも出てくるが、19世紀は骨相学が流行していて、女性や黒人が劣っている事の学問的証明とされた。それらが似非科学だったことは現在では常識である(19世紀の疑似科学 骨相学について解説 - ログミー)。
女性差別だけでなく人種差別や性衝動・暴力衝動の起源を本能に求め、そこに科学的粉飾を与えようとするのは古今東西繰り返された事ではある。しかし差別・性(性的指向、社会的性)は文化的なものであり、社会的文化的脈絡の中でとらえ返され、反省が加えられ、変革されていくべきであろう。
訳者解説にあるように、『3ギニー』は第2次大戦を阻止することは出来ず、ウルフ自身もナチスのイギリス上陸が噂される中、1941年に失意の自殺を遂げる。その事はウルフの敗北のようでもある。
しかし、『3ギニー』が読みつがれて女性や自己変革を希求する男性の指針であり続ける事はウルフの勝利をも意味するのではないだろうか。
書評『「革共同50年」私史』(尾形史人/社会評論社)
筆者は1950年生まれ、68年から中核派(本稿では革共同=革命的共産主義者同盟を通称である中核派と称す)の活動家となり、73年三里塚第二次強制測量阻止の実力闘争の容疑で指名手配、12年の地下生活の後に85年被逮捕・92年満期出所して中核派の活動に復帰したが路線を巡る確執から99年に離党、以後、癌との闘病生活を送りながら労働戦線に関わっていたが昨年8月に病没した。
このような境涯は確かに特殊ではあるが、70年闘争に参加するまでのプロセスは、日本の戦後世代のよくある典型でもある。尾形の場合は、多くの団塊世代がやがて辿ったような高度経済成長へ巻き取られた人生ではなく、一度志した国家権力との闘いの継続を自分の人生に刻み付けただけの事だ。
「私の70年から21世紀までの人生に記録させたものは、多くの方々の歓喜と無念の思いの数々である…万単位の精神のほとばしりの周辺には、デモ時だけ出動するか、または財政支援などをする膨大なシンパ層が存在していた。こうした多くの人々が、中核派とは何であったのか、自分の人生は何であったのか、と今日考えている。こうした方々の気持ちを、少しでも汲み取りたいと思っている」(本書序章)
この抜粋に尾形が本書を執筆した動機が凝縮されている。となると、ありがちな団塊世代の思い出話ともとられそうだが、本書はよくある全共闘世代の回顧談とは異なる平面で展開される。全共闘運動が世界的なカウンターカルチャーの影響で自然発生して伸長したのに比して、中核派は武装闘争を目的意識的に推進してきた。だから、先述した「多くの人々の気持ち」の大半は様々な位相での武装闘争にまつわる記憶である筈だ。
尾形は、今や路線転換した中核派が自らですら省みる事のないかっての武装闘争戦略を批判的に詳述していく。
中核派の武装闘争を戦略的に位置づけたのは「先制的内戦戦略」(1976年)である。70年代安保闘争の高揚を受け、中核派内部では「軍事的行動が大衆的熱気を切り開くのでは、との戦術的判断が強まる」「(当時すでに勃発していた革マル派との内ゲバ)戦争の主要な手段は奇襲であり、ゲリラ型の組織形態をとる」「階級闘争が武装形態を軸に、内乱的に発展する時代、との大きなテーゼを発したものにとれば、革マル派との戦争は、身丈の似た敵との戦争だから大いに遂行できる」「党派間戦争で培う軍事の思想、非公然の戦術形態、組織形態は、権力に対しても役立つはずだ、日本における革命は、こうした経緯をとって前進を始めた、という確信を持つ」「それをひとつにまとめたのが…先制的内戦戦略である」。
こうして死者100人になんなんとする内ゲバが定式化された。また、内ゲバによって成長した非公然組織の標的は、内ゲバが膠着状態に陥った80年代以降、「階級闘争は革命戦争にレベルアップした」として運輸や政治など国家の神経系統に関わる施設へのゲリラ攻撃へと変質した。
「革マル派がいかに悪質な役割を果たしてきた」としても「こうした問題を、軍事的対応のみによって解決しようとしたのは限界があった」「革マル派は、表層的にはファシズムとの類似性があったとしても、彼らを『ファシズム』と規定できるほど巨大な存在ではない」「革マル派との戦争を…プロレタリア運動の二重の闘いとして実践するのか、即ち権力との闘争と『党派闘争』の平行推進とするのか、それとも社会主義革命の正面の扉を押し開いて、ブルジョアジーの国家権力を串刺しにする闘争として同格に位置づけるのか、この違いは大きい」
引用が長くなったが尾形は国家権力との戦いと、運動内部の党派闘争を同列に扱うべきでないと内ゲバを批判的に振り返り、またその理論的根拠となったとして先制的内戦戦略を批判する。
また、80年代のゲリラ戦についても「革命戦争によって政治的共鳴度を高め、支持基盤を厚くしていく、武装蜂起に賛同する多くの大衆が階級闘争に参加してくる、こうしたアイデアは結果的に見れば成功していない」「自分たちの武装闘争が大衆を覚醒させ、革共同の革命戦争に合流するという、信念にも近い思想が決定的に破綻した、という現実を突き付けられるものとなった」と否定的に振り返る。
反省はさらに、戦争の根底にある暴力の問題に行きつく。尾形は、本多延嘉(革共同書記長、1975年に革マル派に殺害された)の『戦争と革命の基本問題』いわゆる本多暴力論も批判的に検討する。
本多暴力論の骨子の中から、「社会に階級矛盾があるのに、それが暴力的に表現されていないとすれば、被支配階級が屈服しているからだ、という規定」「暴力とは、発動主体の共同性の表現であり、他の共同体との関係で発現したものだ。よって、本来暴力は人間性に満ちたものなのである」という規定を取り出し、例え暴力的発現でなくとも合法的手段での抵抗の意思表明はいくらでもある、また、例え人民の側の暴力であったとしても正当性、道義性がない限り無条件で認めることは出来ないとして、歯止めなき暴力の肯定に異議を唱える。
尾形が序章の終りに記しているように、武装闘争の語り部となることは大変困難である。非公然活動の特性として、記録が殆ど残っていない。また自己防衛の観点や、係累の及ぶ他者を慮るなら、体験した出来事は「墓場まで持っていくしかない」からである。
ましてや70年代の内ゲバや80年代のゲリラ闘争は新左翼運動の凋落の要因として歴史的な評価が定着している。その主要な当事者主体である中核派は自らの過去について正面から切開を加えてはいない。本書はそのような中での元メンバーによる数少ない理論的総括の試みである。
先に述べたように、記録の乏しい新左翼の非公然活動はすでに多くの人に忘れられつつある。またそれらが歴史として残ることもほとんどないだろう。だが、「そこにいた全ての一人ひとり」の人生を消すことは出来ない。歴史のうねりの中で搔き消された叫びは、それを聞こうとする者には今もなお、聞こえるのである。
詩
魅力的な男(どこにもいない)
自然とは向こう側の世界
飼い馴らされない
野性(しかしそれはどういう事か)
時間の始まり(誰にも経験できない)
空間の始まり(誰にも経験できない)
理性 即ち 経験できない事への理解
神(ここにいる)
魅力的な男(自由意志に基づく徳)
内乱時代の思想 -出征前夜の大岡昇平ー
「決してありのままの姿ではなく、虚偽やごまかしに満ちている」(『現代小説作法』)。
大岡昇平は私小説を個人の内面の正直な告白であるとはとらえず、描写の対象が書き手その人の内面である以上は書き手の主観や虚飾が色濃く反映されてしかるべきだと考えていた。
すなわち、自叙伝は自叙伝ではなく小説的自叙伝であるならば、批評は批評ではなく小説的批評というべきであろう。
大岡の、戦中回顧談と戦時中に書かれた批評を対照する作業を行うにあたってまず考えたのはこの冒頭の態度である。われわれは、文士が書き遺したものを通じて件の文士の思想を知ることができる。しかしそれは真実ではないかもしれないという用心をもって読まれなければならない。だが、真実ではないにせよ思想の一端を知ることはできるであろう。そう、私の好奇心は真実を知ることにあるのではなく、あの戦時中に大岡がいかなる思想を持ちえたか・または持ちえなかったか? を知ることにある。
「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることができなかった以上止むを得ない。当時私の自棄っぱちの気持ちでは、敗れた祖国はどうせ生き永らえるに値しなかったのであった。しかし今こうしてその無意味な死が目前に迫った時、私は初めて自分が殺されるということを実感した。そして同じ死ぬならば果たして私は自分の生命を自分を殺す者、つまり資本家と軍人に反抗することは出来なかったか、と反省した。平凡な俸給生活者は反戦運動と縁はなかったし、昭和初期の転向時代に大人となった私は、権力がいかに強いものであるか、どんなに強い思想家も動揺させずにはおかないものであるか知っていた。そして私は自分の中に少しも反抗の欲望を感じなかった。」
『ある補充兵の戦い』中の、召集されてフィリピンへ回送される最中の胸中を綴った、有名な一文である。私が知りたいのは、大岡は果たして本当に自分の中に少しも反抗の欲望を感じなかったのか? だ。
昭和19年の召集よりさかのぼる昭和12年すなわち日中戦争開戦前後、まだ日本の将来を案ずるにあたって対米戦回避・宥和を夢見ることもできたはずだがそれを実行に移す人がいなかった頃、大岡は何を考えていたのだろうか?
「文学はやめたと思って、神戸へ行ったんだが、しかしスタンダールだけは向こうへ行っても夜、翻訳したりして続けていたんだよ。あまり売れないけどね。まあ意地があった。(中略)スタンダールの翻訳で稼いだ金で飲んでたよ。月給があるから、売れる本を翻訳する必要はないと思ってた。飲み代が少しあればいいんだから。(中略)朝の三時までは机に向かっていることもあったよ。(中略)翻訳は、これは本来人に読んでもらいたいということで日本語にするわけだよ。ぼくはスタンダールを読んでもらいたいと思うから、売れなくてもスタンダール、もしくは彼に関する本だけ訳す」(『二つの同時代史』)
これは1980年代に入ってからの埴谷雄高との対談における日中戦争開戦前後の回顧談である。大岡は1936年から1944年までの間に「朝の三時まで机に向かって」スタンダール『ハイドン』、バルザック『スタンダール論』の翻訳をはじめ、数編のスタンダールについての批評を残した。戦後、『俘虜記』の大ヒットで一般に知られるようになる前の、きわめてささやかな文学的足跡といってよい。
「意地で」「読んでもらいたい人だけ読んでもらう」ために朝三時まで机に向かって書いた文章から、彼の思想を読み取ることができるだろうか? そして、もしそこに思想の片鱗があると仮定して、それは「権力への反抗の欲望を感じない」類いのものだろうか?
以下、「」内に『わがスタンダール』にまとめられた戦中の大岡のスタンダール批評を引用する。
大岡のとらえたスタンダールの思想を一言でいうなら「幸福な少数者」である。そして「幸福な少数者」とは「偏見に囚われず、幸福の何物かを知り、それを求める術を知っている」者である。それはつまり、時代の制約に対して果敢に切り込み、敗北したとしても自らの使命を全うする「時には危険を冒さねばならない」行動的人間である。
「文学に於ける政治は音楽会の最中に放ったピストルの様なものだ。傍若無人だが、しかし注意しないわけにはいかない」「スタンダールにとって政治は或る自ら制御し得ない精力の現れで」「あくまで個人の幸福を超えた暗の力の爆発であった」「政治も死と同様、最も文学的ならざるものである。が要するに『政治が運命である』以上避けることは出来ないし、避けるのは意味がない」「人間ははたして政治的好奇心から自殺を思いとどまることが出来るかどうか」
これらの断片から見え隠れするスタンダール的「幸福な少数者」とは、フォルトゥナ(運命の女神)に対抗するヴィルトゥ(徳性が転じた力)=「狐の狡知とライオンの力を兼ね備えた」マキャベリ的人間である。ゆえに「幸福の少数者」は政治とは無縁でありえない。
大岡は、スタンダールがマキャベリ的政治的人間の典型であることを見抜いていた。ではスタンダリヤンとして大岡は「幸福の何物かを知り、それを求める術を知って」「危険を冒」しただろうか?
『わがスタンダール』冒頭の『スタンダアル』という小論に大岡の苦渋が見て取れる。これが書かれたのは1936年、盧溝橋事件の一年前だった。以下引用する。
「我々は戦争の惨虐を見たくもなければ、聞きたくもない。投機業者の跋扈とあらゆる文化的環境の低下は、我々の高邁なる精神の真に堪え難しとするところだ。(中略)憤懣の抑制には我々はよく馴らされていたはずではないか。現代社会の一部を蔽っている或る風潮に対して、我々が決定的な態度を取り得ないのも理由なしとせぬ。我々知識人の政治的環境が限界を持つに従って、政治的好奇心も制約を受ける。好奇心だけについていえば、却って制約を受けぬということも出来る。我々の政治的無力の水面に好奇心は油の様に拡散しているのである。智能がわが国の政治を左右したらしく見えた時代すらすぎさったのである」
治安維持法のもとでのギリギリの表現というべきだろう。もちろんこの独白は逆説である。「智能が政治を左右」するなら、「現代社会の一部を蔽っている或る風潮に対して・・決定的な態度を取」るべきであるが「政治的環境が限界を持つ」中で「好奇心だけが油の様に拡散している」のだ。
私は大岡の「権力への反抗の欲望」をそこに見出す。ただし、その「欲望」は「制約」され「無力の水面」の上に漂うことしかできなかった。
1944年5月、大岡訳のバルザック『スタンダール論』が小学館から出版された。しかし大岡はその年の3月に召集されていて、念願の本を受け取ることができなかった。彼が自ら訳した『スタンダール論』を手にしたのは出征先のフィリピンだった。そのフィリピン・ミンドロ島の敗残兵としての体験が、彼の第二の人生への転機となる。しかし『俘虜記』を通じて大岡の文学的才能が開花するのは、そこからさらに数年後のことである。