慧能曰く
菩提本樹無
明鏡亦非台
本来無一物
何処惹塵埃
菩提樹というがそもそも菩提とは成仏の事であって樹木ではなく、
また鏡というが明鏡とは曇りなき状態をいうのであってともに目に見えるもの、手で掴めるものではない。
このように本来は一物もあり得ないのであって、そこに塵埃のように取り払うべき心の曇りも煩悩も生じようがないのだ。
あるいは
良寛曰く
花無心にして蝶を招く
美しく咲く花も、舞い翔ぶ蝶も、虚というには程遠いがこうすべきだとかこうしたいとかいう作為と関係なく美しく生を営んでいるではないか。
これを無心という。
武道で稽古の前後に行う「黙想」は、心を沈め、集中や無の境地に至れる精神状態になる事を目的にしている。
誰しもが窮地に動じない心の状態を得ることを望む。しかしそこに「こうあらねば」という作為が働くうちは、無心には程遠いという事なのだ。