時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

表現の自由と表現されることの意味

 

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誰でも知っている女優の炎上事件が話題となっている。

ハフィントン・ポスト3月6日号『エマ・ワトソン ノーブラ批判に反論「フェミニズムの本質は自由と解放」』という記事が紹介しているのだが、国連女性大使でもあり、フェミニストを自認するエマの「予期せぬ」セミヌードグラビアが、少なくないフェミニストの反感を買っているということらしい。

 

フェミニスト達の反感は、大きくまとめてしまえば「エマに裏切られた」という言葉に集約されるようだ。

どういうことか?

「体を見世物にしながらフェミニストを名乗るのはおかしい」「この写真のせいで、ジェンダー間の賃金格差をなくそうとするこれまでの取り組みがダメになった」「悪いフェミニスト

いままで自分たちが守ろうとしてきた価値を、同じ陣営にいると思っていたエマが裏切った、というのが議論のアウトラインであろう。

 

ではそれらに対してエマはどのように対応したか?

フェミニスト達の批判について)「大変混乱している」「フェミニズムの本質は『女性に選択肢を与える』ということであり、自由であり、解放であり、平等なのです」

つまりエマは自らの価値とするフェミニズムの本質からいって、(セミヌードで被写体になったという)自分の行動は間違っていないと言っている。

 

片方の主張は「女性の身体の露出は女性の立場を侵害する」

それに対する反論は「身体の露出も含めて自己表現の選択肢を持つことこそが自由であり、フェミニズムの本質である」

私がここでフェミニズムの本質論に踏み込むのはあまりに荷が重いのでそのことには触れないでおく。ただし表現とは何か? という論点については少し考えさせられた。

まず、このグラビアが果たしてフェミニストの言うように女性を毀損するものなのかどうか。

私がこれを見ての感想だが、いわゆる「厭らしさ」は微塵も感じられない。性的好奇心をそそられるかというと乳首が隠されている分だけ窃視的な関心がわかないこともないが、強いものではない。むしろミロのヴィーナスとでもいうべきか、自然としての女性美を表現しているように思った。つまりこの「作品」は男性的な視線で見て、ポルノグラフィとは言い難く、自然美・肉体美の謳歌のほうが性的好奇心を上回る。

 

では、エマの反論は擁護されるべきだろうか?

私はエマの反論には違和感を覚える。彼女の発言について正しいか間違っているのかの見分けがつかないくらいに言葉足らずだと思うのだ。「表現の自由」は守るべき価値であるがあまりに自明な事だ。もちろん表現の自由を守るための義務も我々にはあるので、それをないがしろにするわけでは全くないのだが。

それにしても、「表現すること(されること)の意味」を言わなければ、このグラビアをめぐる価値観の衝突は解消することができないだろう。「これはポルノではない。自然美の表現だ」と堂々と言えばいいのだ。そのうえで自然的な存在である女性同士の連帯を深めていけばいいのだ。

 

偉そうなことを書いたが私は男性として解決できない苦しみを抱えている。自らに胚胎するミソジニーを乗り越えようとして乗り越えられたという確証のないまま、女性に対する実体的な罪を負い続けている。私自身が手枷足枷をはめられてしかるべき存在であるという自覚を持ちつつ、表現の自由論争に対して、ジェンダーセクシャリティの共同主観に支配された男性が「表現として受け取ること」ひいては「負の行動」を怜悧に反省していきたい。

 

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