時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

韓国ダークツアー②

悪天候のため1日遅れで済州島に到着した。
空は曇り、丘陵部では霧が立ち込めるほどだった。

昼過ぎに済州に着き、午後遅く済州4.3平和公園に行った。
丘の上のとても広い敷地に、1948年4月3日済州事件の数万人と言われる犠牲者を弔うメモリアルパークがある。

 

沖縄の平和の礎のような、犠牲者の氏名と没年月日が記された碑。明らかになっているだけで16,000人以上が亡くなったそうである。遺族が慰霊の際に残したと見られる、母子の名前の入ったまだ新しいペットボトルがあった。

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また、広大な公園内にはモニュメントがたくさんある。下記に記すように博物館自体が一つのモニュメントとして企図されているくらいだ。

館内にも蜂起を五感化して伝えるようなオブジェが意識的に配置されており、現代美術的にも洗練されているそれらは、記憶を陳腐化させず、見る者の内なるイメージを喚起させる効果があるのではないだろうか。

 

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『飛雪』」と名付けられた母子像。1949年1月の焦土作戦中に雪原で亡くなった実在の母子がモデル。

 

 

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名称・コンセプトはわからないがおそらく済州島のシンボルである漢拏山を背景にした様々な年代の人々。犠牲者の転生を願ったものだろうか。

 

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博物館へのアプローチにある『門柱』。鉄鋼の柱と金網の中に3万(済州事件の推定犠牲者数)個の石が詰め込まれている。

 

丘のはずれに博物館がある。美術館のような、逆円錐形の現代建築である。この形状自体が、「歴史を盛った器」をモチーフとしているそうだ。

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館内に入り、「歴史のトンネル」をくぐると、白無垢の石の展示がある。歴史の捉え方が定まるまでは文字を刻むべきでないという想いを形にしたものだ。

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焦土作戦の犠牲者をモチーフとしたレリーフの数々。

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やはり、大量虐殺された人々をモチーフとした作品。波と青空の中に横たわる犠牲者たち。犠牲者の想いの詰まったトンネルを歩いた先に未来があることを暗示しているようだ。この作品の原型となったと思われる写真と見比べてみる。

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博物館の中はあの広島の原爆資料館のような、圧倒的な展示。
修学旅行生も訪れていて、まるで『火垂るの墓』のようなタッチのドキュメンタリーアニメに見入っていた。

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ここで館内展示を交えながらざっと済州4・3事件について振り返っておく。

朝鮮半島は1945年8月15日の日本敗戦とともに日本の植民地からは解放されたが、ご存じの通り冷戦に突入した米ソが確執する舞台となり、また韓国朝鮮内部の保守派と労働党に代表される左派の分断が抜き差しならぬものとなっていった。

アメリカは親米右翼を支援して朝鮮半島南部に傀儡政権を作ろうとしていたが、労働党朝鮮半島の分断に反対していた。これが事件の大きな背景をなしている。

1947年3月1日(3・1はいうまでもなく日本占領下の独立運動の記念日)に統一国家の実現を訴えるデモに警察が発砲、デモ側に6名の死者を出す。これに抗議して、島内95%が参加したといわれるゼネストが勃発するなど島内の傀儡勢力への反発は広がっていく。

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南朝鮮労働党の勢力が強かった済州島では当時占領していたアメリカによって北部から逃れてきた青年を中心に西北青年会を呼称する極右組織がつくられ、「西青」による島民弾圧が激しさを増していった。

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1948年5月10日に国連監視下で南朝鮮単独の総選挙が実施される運びとなり済州島内左派が4月3日に島内各所で警察署を襲撃するなど武装蜂起を起こす。韓国軍が蜂起の鎮圧にあたったが、ゲリラ化して山間部に籠った蜂起勢力が完全掃討されたのは1954年になってからの事である。その間に蜂起勢力の家族や同調者と見做された島民が多数殺害された。犠牲者の数は身元が確実視されているもので1万6千名といわれているが、死者数はそれ以上としている資料が多くある。

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身元がわかっている犠牲者達の顔写真が一面に張り巡らされた通路を抜けると、展示は終了である。

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4・3平和公園は日本国内の戦災を刻んだ施設と良く似ている。
でも何かが違う。


南北分断が今も続いてる事が示すように、まだ解決していない歴史。
21世紀近くなって初めて韓国政府が謝罪した、まだ清算されていない歴史。
そして

何よりも何よりも

「戦争が(誰かが)悪かった」では済まされる事のない、自国民が、より良い世の中を求めるために、自分達の血で贖った歴史。

 

公園のある丘は、日本と同じように桜で覆われていて、霧の中の桜はとても幻想的だった。

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(続く)