時空自在

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韓国ダークツアー③ 光州

(承前)

次の日の朝早く済州から光州に空路移動した。

 

1980年光州抗争。始まった日付を以て「5・18民主化運動」と呼ばれる。
当時、私は中学二年。隣国から届く突然のニュースに驚き、それがどういう事なのか理解する事に苦しんだ。当時愛聴していたTBSラジオの深夜放送で、今は亡き林美雄アナウンサーが現地レポートを届けていたのを思い出す。
市民が軍隊に撃たれて次から次に亡くなっているとか、現地の状況を伝える事自体が命がけだとか。
平和でモノだけは溢れていた日本で育った私には、思いもつかない事だった。

 

光州事件は、その後の私の脳裏に一つの問いを刻みつけた。


「人は自分の利益にならない事に全てを投げ出せるのか?」
光州市民は、その問いを自ら発し、自ら答えを出していたわけだが。

 

抗争から39年たって初めて現地を訪れた。

 

地下鉄の文化殿堂駅を降りると地下構内にはすでに「5・18」の展示がある。光州市民にとって民主化運動がどれだけの重さを持っているのかがわかる。

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光州地下鉄・文化殿堂駅構内の民主化運動を記念する展示

 

駅から地上に出るとすぐそこが民主化広場だ。80年5月18日から抗争が鎮圧されるまで、多くの市民がここを埋め尽くした。最近ソン・ガンホが主演した『タクシー運転手』で主要な舞台となった場所である。

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民主化広場のシンボル、時計塔



民主化広場の背後にあるのが旧全羅南道庁舎。抗争当初は軍が立て篭もり、後半は市民の拠点になった。

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全羅南道庁舎 日帝時代の建築だが、当時稀な韓国人建築家が設計した

 

道庁から正面に民主化広場の向こうに伸びているのが錦南路。抗争の期間中、多くの市民やバスで埋め尽くされ、抗争3日目、軍による集団発砲で市民に多くの犠牲者を出した場所である。

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錦南路 余談だが、錦南路の地下は長大な地下ショッピングモールとなっている

 

時系列で韓国現代史の転換点となった抗争を振り返ってみる。引用する画像は全て、私が訪れた錦南路の中ほどにある、光州民主化運動記録館の展示である。

事件の第一段階は、朴正煕暗殺を受けて「ソウルの春」といわれた民主化を求める学生運動が光州に飛び火した5/18を境に 戒厳軍(空輸部隊)が徹底的に鎮圧したことによって始まった。

当時、学生運動の指導部はクーデターで軍を掌握した全斗煥の新軍部によってその殆どが予防検束されており、学生達のデモは計画的とは言い難く、多分に自然発生的なものだった。それに対して新軍部は空輸部隊に「鎮圧棒」と呼ばれたデモ対策用の棍棒を装備させて、デモの鎮圧訓練に血道をあげていた。

光州各地で学生デモが散発的に起こったことに対して、戒厳軍はデモ参加者は言うに及ばず、周りで見ている者にまで鎮圧棒を振り下ろし、衣服を脱がせて次から次へとトラックに放り込み連行していった。

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デモ参加者に鎮圧棒を振り下ろす空輸部隊の兵士

 

民主化運動は翌日19日、潮目を変えていく。学生デモへの暴圧を聞き知った市民が続々と民主化広場から錦南路を埋め尽くしていき、第ニ段階へと移行していく。19日から20日の2日間、学生のデモ参加者が次々に逮捕された後を引き継ぐように市民が街頭に溢れ出ていく。記録映画でお馴染みのバス、タクシーが列を連ねた車両デモが挙行されたのもこの期間である。20日に至り、戒厳軍に銃撃された市民ニ名が死亡し、民主化運動初の死者が出た。ニ名の市民の遺体は太極旗に包まれて黄色いリヤカーで錦南路まで運ばれた。それを見た市民たちは恐怖に慄くと同時に戒厳軍への怒りを湧きあがらせ、この事がきっかけとなりさらに数十万人の市民をデモへ駆り立てる事となった。

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街路を埋める群衆

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光州駅前で射殺された市民二名を載せたリアカーと、民主化運動記録館に展示されているそのレプリカ

 

民主化運動の第三段階といえるのは5/21 戒厳軍の発砲による大量虐殺と、それに対抗する市民軍の結成から戒厳軍の撤退までである。

市民軍の結成という事が、多くの日本人にはピンと来ないかもしれない。実際、日本史においては秀吉の刀狩り以降、民衆が権力者と同等の武器をもって対峙するという歴史的事件は一度も起きていない。光州蜂起を引き継ぐように韓国内の学生運動が燃え盛っていた80年代後半、韓国の留学生と交流した事がある。「軍がデモの鎮圧に乗り出したらどうするのか?」という私達の質問に彼は「韓国人は全員兵役を経験しているから武器を扱える。軍が出てきたら警察の倉庫から銃器を調達して戦う」と事もなげに言い放った。実際、それに先立つ光州蜂起では21日白昼、錦南路を埋める群衆への戒厳軍の集団発砲に対抗して、市民が自発的に警察署から武器を入手し、あれよあれよという間に自然発生的な民兵組織が誕生した。

武器を持って立ちあがった市民を前にして戒厳軍は拠点としていた全南道庁舎から撤退し、こうして光州市内に、束の間の、奇跡のような市民自治が実現したのである。

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戒厳軍の集団発砲により血に染まった錦南路

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市民軍兵士「なぜ我々は銃を手に取ったのか?」

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市民を激励する市民軍

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第四段階は、戒厳軍の撤退により実現した市民自治の期間と、5/27の全南道庁舎への戒厳軍の急襲による抵抗の終焉までである。

この市民自治の期間、光州市内の治安は極めて良好に保たれ、市街戦の混乱にも関らず窃盗や強盗などの犯行は見られなかったという。市民、学生は自発的に市街戦の爪痕が残る街路を清掃し、市民軍への炊き出しが行なわれた。街には負傷者への献血を訴える赤十字やデモ隊の車が走り回っていた。

この間、市民収拾委員会が結成され、軍部との交渉に当たったが軍部は時間稼ぎをする一方、全面的な鎮圧の準備を進めた。

27日未明、光州市内に戦車が侵入する。抗争報道部はこの事実を市民に伝え、最後の瞬間に備えるべきだと決定し、女性ニ名が広報車から「市民の皆さん、今戒厳軍が攻めて来ています。愛するわが兄弟、我が姉妹が戒厳軍の銃や刀に倒れています。皆で戒厳軍と最後まで戦いましょう。私達は光州を死守します。私達は最後まで戦います。どうか私達を忘れないでください…(*)」と呼びかけた。このアナウンスはそれを聴いた光州市民の記憶にいつまでも残る事になった。

戒厳軍の突入開始から1時間10分で光州市内は再び軍部に制圧された。

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検閲で真っ赤に塗り潰された新聞

 

さて・・・。

前日の済州4.3記念公園でも感じた事だが、これら韓国現代史に深く刻み付けられた史跡は、日本の戦災史跡たとえば原爆資料館や沖縄の平和の礎と似ていて、でも、何かが決定的に違う。

何が違うのだろうか。

日本の戦災史跡は、もちろん訪れる者の心を打たずにはおかない。あの有名な「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」という言葉も、多くの日本人の共通の願いを表現しているといって差し支えないだろう。

でも…。 

「繰り返しませぬ」ために何をしてきたのだろう。「過ち」とは何だったのだろう。「過ち」とは原爆を落としたアメリカの過ちなのか? そのような結末をもたらした戦争を開始した日本軍部の過ちなのか? それともその戦争に加担した、日本市民一人ひとりの過ちなのか? 戦争が悪いと唱えながら責任の所在を問う事もなく、歴史の記憶すら混濁とした意識の中に消えようとしている。

その点、韓国の歴史史跡は明快である。かって権力者により葬り去られ亡き物とされた歴史が民主化の進展とともに徐々に見直され、光を当てられている。特に光州蜂起は、80年代後半に独裁政権を打倒した民主化運動の発火点となったため、民主主義の進展を招き、韓国現代史の流れを変えた、前代未聞の市民武装蜂起として記憶されている。

日本の戦後史が「敗北を抱きしめた」ところから始まり、束の間の経済的成功以外には何かを成し遂げたとはいえない現状に比して、韓国現代史は幾多の犠牲を乗り越えて、民主主義の正当性を勝ち取ってきた。

光州蜂起には、いわゆる歴史の教科書に名前が残るようなカリスマ、英雄は登場しない。代わりに登場するのは無名の市民、学生である。

「当時の状況では、自分の生命を含む、すべてのものを捨てる覚悟がなくては、抗争に参加することはできなかった。それにもかかわらず光州市民は、少数の英雄ではなく、すべての市民の名の下に集い、一つになって抵抗し、ついに勝利を収めた。政府があらゆる手段を動員して、不純分子と暴徒による暴動というレッテルが貼られても、光州市民は非人間的な暴力への抵抗こそが、自分たちの生存権を守る道であり、正義であるという信念を持ってその道を進んだのである(*)」

 

中学生だった私の脳裏にひっかかった問いは、私の中では未だに答えが出せていない。

でも、こういう人たちが実際にいたという事が、より強く私の心に何かを置いた。

 

光州から釜山まで長距離バスで移動した。約3時間の道のりだった。

釜山から下関に向かう夜行のフェリーで玄界灘を越えて日本に帰った。いま在日と呼ばれる人々の祖先が、かって渡った航路である。
隣国との日本の本来の距離は、船で一晩。けっして遠くはない。ゆっくり海上を移動してもたった一晩で着いてしまうのだから。

遠くない、隣国との距離を噛みしめながら帰路についた。

 

記:民主化運動の経緯の記述と一部出典(*)は『5・18民主化運動』(光州広域市5・18紀念文化センター史料編纂委員会)による。