時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

誰にも似ていない私について

【1】

いつの間にか、ほかの誰にも似ていない人間になった。

同世代男性と比較すると、猶更である。しかし、借り物でない言葉を発する事が出来るようになるまで、どれくらいの時間が必要だっただろうか。

そして、多くの人が望むものを手に入れる事が出来ずに死んでいくのに対して、私はどれだけ、自分が望むもの以上の何かを手に入れてきた事だろうか。ただしそれは、達成感というにはほど遠いものである。

勿論、「望むもの以上の何か」とは物質的なものではない。経験によって培われた境地も確かにあるが、それが全てではない。経験によって予測できるちっぽけな未来は、予測をはるかに超える暗示的な何かによって、常に、転覆され破壊されてきた。そして物事は大抵、予定調和を大きく崩して進行するのが常だった。

中学生の私は、自分が10年後に三里塚闘争の野戦に赴く事を予見しただろうか。

30歳で就職した私は、自分が10年後に企業の創業メンバーの一員となり、ビジネスの荒波の中で数奇な運命をたどっていくことを予見しただろうか。

40歳で趣味の空手をやめた私は、一生道着に袖を通さないだろうと諦めていたにも関わらず、稽古を再開しただけでなく10年後には道場を主宰しているようになっている事を予見しただろうか。

40歳代前半まで、男らしさというコンプレックスの真っただ中にいた私が、ある事件を通じてフェミニズムに傾倒していく事を予見しただろうか。

これらは達成感と呼べるようなものではない。努力したつもりもない。全てファナティックな所業の結果であり、まるで自分の外にいる何かに突き動かされるように、背筋に走る何かを感じながら行動してきた結果である。

だから、そもそも大した計画など持ち合わせていなかったが、計画通りとかそういうものではなく、むしろ小さな予測は常に裏切られながら、それでもいつの間にか私は、他の誰にも似ていない私になった。

 

【2】

結局、滑稽な一人旅をしてきたのだと思う。家があってなかったかのように。20代の頃、新左翼のアジトを転々としていた時代は言うまでもなく、結婚そして破綻、職場の近くに移り住む、同棲そして破綻と常に生活環境が固定することなく、自ら家族を形成することもなく社会や人間関係を横切って行った。

そしていつの間にか孤独を恐れなくなり、いつの間にか孤独を好むようになった。人間を大別してみるに、「誰かのために誰かとともに生きる人間」と「何かのために一人で生きる人間」に分けられるとしたら、私は紛れもなく後者である。

だから私は、一人旅、特に海外に行った時の、知り合いが半径1,000㎞以内に誰もいない感覚が好きだ。一人旅で、航空機が悪天候のため欠航し、予定地の遥か手前で停滞してしまって宿泊先を慌てて探すあの感覚が好きだ。

他人と協調するより自分と向き合う方が好きだ。

他人からアドバイスを受けるより、読書を通じて知らなかった事を知っていく事が好きだ。

そして、生き方もいつのまにかそのようになっていった。

 

【3】

そのような生き方は自由をもたらす。私は、いつもハミ出して生きてきたと言ってよい。

バブル経済の絶頂期に資本の論理に異を唱えてデモの現場に立ち続けた事もそうだし、ミゾジニーが当たり前の同世代男性の中にあって自らのジェンダーに苦しんできたこともそうだ。50歳を超えても空手の試合に出続けた事もそうだし、旅といえば多くの人が行きたがらない場所に自然と赴いてしまう事もそうだ。

仕事や人間関係の中で最低限の責任を持つこと以外、大した努力もした事がない私を突き動かしてきたものは、知らない土地への探求心のようなものであり、常識を酷く陳腐に感じてしまうどうしようもない性分であり、少数者を嘲笑する者達をむしろ嘲笑し返す雑草のような根性だった。

なぜ満員電車の中にいる人々は、物理的に至近距離にいながら心理的に遠く隔たっているのか?

なぜ地球の裏側で起こっている戦争を、ただ此処で起こっていないからという理由だけで脳内から消去出来るのか?

なぜ国籍や結婚といった単なる制度にすぎないものが、疑われることなく多数の人々の規範となり、多数の生き方を決定してしまっているのか?

なぜ人間は自然状態における自他の保全という当為命題を真っ向から無視して、繰り返し繰り返し社会を歪ませていくのか? 

国家や階級、結婚といったといった被造物を、あらゆる生物の中で人間だけが造らざるを得ないものだとして、そのような被造物としての機構を造らざるを得ない事の基底にある動機が支配欲であると仮定しよう。

もし支配欲が人間にとって不可欠な属性であり、自然状態における自他の保全という素朴な命題と対抗するレーゾンデートルであるとして、そのレーゾンデートル自体を疑ってみる事は、そんなに間違えていないと考えるが、いかがだろうか。

そして、誰かと似たよくある生活よりも、誰とも似ていない生き方を選び、誰も見た事がない風景を見たいと望む事は、いつだって頭がおかしいと思われてきたが、頭がおかしいのは一体どっちなのだろうか?

 

【4】

ここで私は、18世紀の啓蒙主義者のように、人間の自然状態に思いを巡らせる。

生命は対等であり、優劣をつけられない事。

自他の保全以外の根源的欲求は存在しない事。

愛される事を望むなら、愛さなければならないという自明の理。

これらを、人々は生きていく中でなぜ摩耗させ、忘却していくのはなぜだろうか。

常識なるものがしばしば、自然状態への阻害物として立ち現れるのはなぜだろうか。

自他の保全を踏みにじるような物質的欲求に多くの人が囚われていくのはなぜだろうか。

幼児の純粋さが、社会性の獲得とともに喪失されていくのは、なぜだろうか。

自然状態を維持する事、存在の純度を保つ事がこれほど難しいのは、なぜだろうか。

人は息を吐くように序列をつくる。

人は息を吐くように差別する。

人は息を吐くように犯す。

人は息を吐くように支配する。

これらはしかし、人間の本性ではない。なぜなら自然状態に反するからである。自然状態の中から宿痾のように形成された癌のようなものである。

私が考えるに、人間とは、砂漠や大海の只中での遊弋や漂泊を本性とする存在である。人間の根源的欲求とは、一つは自己の保全であり、もう一つは他者への共感である。自己防衛は人間に生来人間に備わった属性だが、自己犠牲もまた、生来人間に備わっている。時としてエゴを剝き出しにするのも人間なら、誰かのために命を賭けるのも人間である。

愛された体験のない者が人を愛する事が出来ないなら、その者は愛されなければならない。愛された事がある者は愛が何かを知るがために、愛された事のない者を愛さなければならない。

 

さて、ではそろそろ私は、私の終焉について考える。

出来るなら、漂泊の果てにどこかの浜辺に打上げられた流木のように終わりたいものである