時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

戦争文学としての『チェリー』

 ニコ・ウォーカー『チェリー』、主人公がイラク戦争から生還したところまで読んだので、おこがましいが戦争文学としての所感をつらつら書きたい。

 

 『チェリー』のイラク戦争の記述は桑島節朗『華北戦記』と似ている。イラク華北、どちらも非対称戦争つまり、正規軍vs敵意に満ち民衆という戦争だからだ。正規軍は点と線しか支配できず、基地を出れば攻撃される。

 イラク華北が違うのは、華北ではゲリラが待伏せして実弾を撃ち合ったが、イラクでは人と戦う事は殆どなく、アメリカ軍は仕掛爆弾でじわじわ殺されていった。『チェリー』には仕掛爆弾の描写が繰り返し出てくる。

 仕掛爆弾がナンボのものか、『チェリー』で初めて知った。標準は155ミリ砲弾を3つ繋げて遠隔で爆発させるもの。155ミリ砲弾というのはその筋の人は詳しいだろうが、1発当たればコンクリの建物を吹き飛ばす。 米軍かパトロールに出れば到る所に仕掛爆弾がある。 死ぬか生きるかは確率論でしかない。

 

 『華北戦記』と『チェリー』のもう一つの共通点は、主人公が衛生兵だという事。軍隊の官僚組織としての馬鹿らしさや戦場の不条理を、衛生兵という一歩引いた立場だから冷めた視線で描けたのではないか。

 衛生兵というのは不思議な存在で、軍隊という人を殺す組織の中で命を救う任務を担う。だから戦争に対してどこか冷めている。

 でも、『華北戦記』も『チェリー』もそうなんだけど、衛生兵は安全地帯にいる訳でなく、歩兵とともに常に最前線にいる。兵力が足りなければ自分も戦闘に加わる。損害が出れば時として敵も救命する。そんな矛盾した存在。多分文学でしか正当化されないような。

 

 それでも『華北戦記』と『チェリー』には決定的な違いがある。 『チェリー』では、自分達がどこにいたか、自分達が誰と戦っていたのか、その政治的軍事的意味あるいは無意味は何か、一切記述されない。

 『チェリー』ではイラク人は「ハジ」という蔑称でしか呼ばれず、彼らがアメリカを憎む政治的背景など一切省みられる事はない。 あるのはただ、相手の顔も見えず戦闘らしい戦闘もしないまま毎日仕掛爆弾で殺されていく、無意味で不条理な日常だけだ。

 『華北戦記』では筆者の最前線の体験を跡付けるように、当時の軍中枢の方針や八路軍の動向が重層的に記述される。それは大岡昇平『レイテ戦記』に通じる、現場と決定権者の果てしない溝を描き出すための方法論である。

 『チェリー』にはそれがない。 勿論これは意図的なものだと思う。ニコ・ウォーカーは多分、戦争を理解可能なものだとは思わなかった。だから、政治社会の文脈で簡単にわかったふりをされたくなかったのだと思う。

 

 だから『チェリー』の戦場描写はどちらかと言えばカミュカフカばりの不条理文学の様相を呈している。わかったふりすんなよ、と言いたげに。

 

 で、ニコ・ウォーカーは不条理文学を気取ろうとしているが、私が思うにアメリカ人は不条理は似合わない根本的なお人好しじゃないかと思って。 なぜから「ハジ」の奴らを診察する時に、筆者は必死に人情を隠しているが隠し切れない。それすら計算だとすれば筆者は天才だし、これは傑作である。

 

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