時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

見えざる者たちへの忠誠-クッツェー著『エリザベス・コステロ』

クッツェー著『エリザベス・コステロ

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エリザベス・コステロなる架空の女流作家がノーベル賞作家クッツェーの分身のような語り部である事の詳細は、くだくだしければ略す。興味を持たれたら本書を一読されたい。

本書では、まず邦訳では4章にあたる「悪の問題」が実に興味深い。 ざっくばらんな感想を言えば、これを小林秀雄あたりが読んだらボロクソに言うだろう。でも今は21世紀だ。小林よりクッツェーに分がある。

そのテーマは、表現の自由はどこまで自由である事が許されるのか? または芸術至上主義は人間社会から遊離して至上でいられるのか? 文学が現実世界に悪をもたらす事が倫理上許されるのか? というような事になろう。

これはフェミニズムが訴え続けた事でもあり、ドウォーキンによるマルキド・サドやバタイユに対する批判と通底する。

ポリティカル・コレクトネスとの関連性も、もちろんある。

ちなみに本編で小道具に使われる『シュタウフェンベルク伯爵のきわめて豊かな時間』は、その著者であり本作の副人物であるポール・ウエストとともに実在するらしい。

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で、『シュタウフェンベルク伯爵のきわめて豊かな時間』を芥川龍之介の『地獄変』に置き換えてみると日本人に馴染みやすくなると思う。かくゆう私も若い頃は『地獄変』に熱狂した。

おそらくクッツェーは芸術至上主義への熱狂に身を浸しつつも、『地獄変』的な、芸術が現実を浸していく事象と距離を置こうとしている。

 

ところが、終章の「門前にて」ではうって変わって文学の意味が湧き出てくる。冥界の門に辿り着いたコステロが審判官達とカフカエスクなやりとりをする中で、「なぜ書くのか」についてのある境地を見出していく。

コステロは、歴史上の罪についての問いかけにすら、殺された者だけでなく殺した者の苦しみをも代弁すべきだと言って、「信念」を相対化する。「目に見えざる者の秘書」として耳に聞こえるものを書き、そのまっとうさを試し、正しく聞き取れたか確かめようちしてきたのだ、と。

これは「悪の問題」で突き出した芸術と倫理の関係と矛盾するのか?それとも重なるのか?

コステロは、「目に見えざる者」の声を正しく聞き取ろうとしている。正しく聞き取る中で、そこに内在する(或いは、内在しない)倫理を問わざるを得ないかもしれない。

そういう意味では、「悪の問題」に引き続いた問題意識といえよう。

1回目の審判は、一元的な信念を求める審判官と、信念を持たない事こそ信念だと譲らないコステロの主張が噛み合わず、結論が出ない。

次の審判までの間、コステロは自らの所業を振り返る。自分は芸術的信仰など見当たらず、ある時期ある場所にいた人々がどう生きたという事を、明瞭に綴ってきたのだと。

2回目の審判、雨季と乾季を繰り返す故郷の大河、雨季の夜の蛙達の蝉しぐれのような声をコステロは追憶する。本編の最も感動的な場面である。

しかし審判官達は、前回は信念を相対化したコステロが、今回は生命を信じている事の矛盾をつく。

2回目の審判を終えたコステロは、自分を支えてきたものは信念beliefではなく忠誠fidelityだった事に気づく。 言うまでもなく、目に見えざるものへの、オデュッセイアの寓話の中で生贄となる牡羊への、乾季に土の中で仮死状態になり、雨季に生命を謳歌する蛙たちへの忠誠である。

 

翻って、読者である私には「そこ」にいる全ての一人ひとりが問題であり、「そこ」にいて掻き消される無数の人々の声を、なおも聴こうとしている。 それはコステロと同じく信念というよりは全ての一人ひとりに対する忠誠であると言ってもよい。