時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

『ナビレラ』に見る韓国の圧縮された近代

『ナビレラ』は2021年に韓国で制作されたドラマ。原作はHUNによるウェブ漫画で、ドラマでは主人公の老人ドクチュルをパク・イナンが、副人物の若きバレエダンサー、チェロクをソン・ガンが演じている。安定した老後を送るはずの老人男性がバレエダンサーを夢見て自己実現する物語である。

 

70歳という年齢の制約や、「男がバレリーナを目指すなんて」という世間のジェンダー的偏見に囚われず、自らに忠実に自己実現を果たしていく主人公ドクチュルの姿を軸に、家族やバレエ教師など周辺の人物たちも自分らしさを取り戻していく物語。
何よりも、この物語の後半の展開の核となる、とある宿命を負ったドクチュルと、挫折を乗り越えダンサーとしてエリートコースを踏み出したチェロクとのラストの再会のシーンが美しい。
この物語では、主人公は逆境を乗り越えて成功(自己実現)を獲得し、なおかつ、それでも逃れることの出来ない宿命を受け入れていく。人生とは絶えることのない葛藤の過程である事を訴えかけてきて、ドラマを通じてそのカタルシスが十分に得られる。

 

ところで、ここでは高齢男性が主人公となっている事の背景を少し掘り下げてみたい。なぜなら、韓国でも日本と同様に高齢化が進んでおり、ドラマでも高齢者の生き方の多様化を賞揚しているが、そんな個人の生き方の多様化と家族制度が(ドラマでも描かれているように)時として衝突するためである。
韓国で転換期にある家族制度が本作品でどのように反映されているだろうか。
主人公ドクチュル夫妻には3人の子供がいる。長男ソンサンは大手企業に勤め、成功者といえるが娘のウノは一人っ子である。長女ソンスクは結婚しているが子供はいない。次男ソングァンは未婚で、やはり子供はいない。
つまりドクチュルのには3人の子供がいて、ここまでは人口構成はピラミッド型だが、孫が一人しかおらず、ここにきて人口構成は強烈な紡錘形となる。
長男ソンサンの妻エランは専業主婦になってキャリアを失った事に心の傷を負い、優等生の孫娘ウノは父親の望む大企業への就活に挫折し、親の望むままに生きてきた事を後悔する。次男ソングァンは外科医でありながら他者の生命と向き合う重さから医師を辞めようとする。
それらの描かれる家族関係や個人の生き方は、圧縮された近代の結果だといえる。
圧縮された近代とは、近世まで封建制だったが、経済社会を急成長させるために急速に近代を受容せざるを得なかった東アジア近現代共通の現象である。
圧縮した近代においては経済的、社会的、あるいは文化的な変化が、資本の論理と商品経済の浸透による生活の個人化をもたらす。そこで起きる個人化は西欧的な思想としての個人主義自由主義を内包していない(注)。
圧縮された近代においては旧来の家族関係が再構成され、外形的な脱家族化、個人化を余儀なくされる。
そして『ナビレラ』は、すでに崩壊しはじめている家族制度を作品として表現している。

 

『ナビレラ』ではドクチュルにはバレエダンサーとしての自己実現だけでなく、過酷な宿命が待ち受けていた。だが、それだけでなく、圧縮された近代がもたらした共同体の崩壊が要因となって、ドクチュルの子供や孫たちの将来も形を変えた宿命が待ち受けているだろう。そしてそれは単線型のサクセスストーリでは描き切きれないものとなるだろう。


(注)京都大学学術出版界『親密圏と公共圏の再構成』第1章 「個人主義なき個人化-【圧縮された近代】と東アジアの曖昧な家族危機」(張 慶燮/筆)にもとづく。