時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

ソラリスについて(スタニスワフ・レムとタルコフスキー)

タルコフスキーの『惑星ソラリス』を観たのは高校生の時だっただろうか。未来都市のロケに70年代初頭の首都高速が使われていた。『ブレードランナー』が東京の混沌をモチーフとしたのと、どこか似ている。

原作の小説『ソラリスの陽のもとに』(スタニスワフ・レム著・早川文庫)を読んだ。山脈のようなソラリスの海っていう描写を映画では表現できていなかったなどと思いつつ、映画ではバッハのオルガン曲が効果的に使われていたので、バッハつながりでグールドを聴きながら。

それにしても恒星間飛行する時代の人類が無線機に真空管使ってるあたり、古典ならではのおかしみ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』でもテレビ電話の接続に交換手使っていたりしたっけ。 いとおかし。

小説ではソラリスステーション内の科学者達のコンビネーションが丁寧に書き込まれていて、秀逸。

場末のサラリーマンみたいな泥臭いスナウト。

ファウストのなり損ねのサルトリウス。

好男子の主人公ケルビン

早川文庫版118ページ、スナウトのセリフがこの小説のテーゼといえるだろう。科学者達は、自分達を「異星との聖なる接触(コンタクト)の騎士」だと思っている。ところが、異星(他者)は自分達と同質であるどころか、自分達の想像し得ない異質な存在である。

154ページ、映画でお馴染みのハリー(ケルビンの自殺した元妻がソラリスの海の能力で甦った存在)がドアを破るシーン。映画では、ソラリスの海が科学者達の潜在意識に住む過去に傷つけた人物を物質化した「お客」の異常性を表現する最初の場面になっていて、ただセンセーショナルだったが、小説では主人公ケルビンとハリーの地球での破局の経緯を丹念に描いていて、それらの伏線の張り方が念にいっているので涙が溢れてくる。

278から282ページ、やはりスナウトがこの作品の問題の核となるような長セリフを語る。映画でバッハのオルガン曲が流れていたのはこのシーンではなかっただろうか。

酔っ払ったスナウトによる、主知主義への懐疑を述べるその長口上を経て、静かにクライマックスに向かっていくが、なんなんだこの圧倒的な切なさは。

最終312ページ、胸に迫るケルビンの独白。

これは、タルコフスキー版のペシミズム、不可知論とは相入れない。映画ではケルビンは地球に帰還したつもりがソラリスの海から抜け出る事が出来ていなかったというオチになっている。人間の知りえる事の限界性を詩的に表現していて、それはそれで感動的ではあった。

小説でも理性の有限性というのは重要なテーマではある。ただ、タルコフスキーがそれを詩的世界の悲劇に仕立てたのに対して、医学や生物学を学んだレムは、科学者の視線を併せ持ちながら、人類の過去の誤謬(小説の中で、膨大に蓄積されたソラリスの海の知的活動に対する誤った仮設の数々・ソラリス学として表現されている)にも関わらず、誤りを犯しながら自然や宇宙に関わろうとする営みを擁護しているようだ。