時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

白扇

      

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白扇の 末広がりの 末かけて

かたき契りの 銀要

かがやく影に 松枝の

葉色も勝る 深緑

立ち寄る庭の 池澄みて

波風たちぬ 水の面

うらやましいでは ないかいな

 

 一年半振りに踊りの稽古に行った。新宿に転勤してからというものの、地元の稽古場に水・土しか開かれない浚い(さらい)に行くことは叶わなかった。

 一月に同じ市内とはいえ玉川上水に近い田園地帯からより駅に近い地域に引っ越した事を幸い、久しぶりの稽古と相成った。

 

 六年ほど続けた稽古場通いで長唄まで習うようになっていたが一年半のブランクを見越した師匠が私に申し付けたのは”黒田節”だった。踊りを習った時に初めて教わった黒田節、この初心者向けの曲をどうにかこうにか踊る。黒田節をウォームアップとして次に師匠が申し付けたのが”白扇”である。歌詞の通り、祝言をあげる若い男女を寿ぐ祝い唄である。小唄で曲は短いがシンプルな黒田節からすると難易度はぐっと上がる。果たして乗り切れるのか。

 

 所作はすっかり忘れていた。扇の返しだとか、腰の入れ込みだとか。”ここまで忘れていると思わなかった”とは呆れ果てた師匠の一言である。

 でも私は満足していた。

 ”白扇”は短いながらに序破急とでも言うべき”間”の要点が隠されていて、それが難しくもあり、一方で間が合ってくると何とも言えない恍惚感に浸ることが出来る。開始の”いよぉー”でかしらを上げ、”ポンッ”で立ち上がるあたり、また始まり近くの扇を開いて舞うあたり。あぁこれなんだよな、仕事の合間に憑かれるように稽古に通わせた”何か”とは。眩暈としか形容できない、身体と所作が合一して或る体内の変化をもたらす感覚。下手ながらも踊りたい、踊りたいと掻き立ててきた”なにもの”か。

 

 つまり私は踊ることによって、いまを極めて満たされるのである。