時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

3ギニー

 表題の書はヴァージニア・ウルフ著、昨年10月に平凡社から邦訳(片山亜紀訳)が出版された。

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 原著は1938年6月に上辞された。ナチスチェコ割譲とポーランド侵攻の狭間の時期、またスペイン内戦が戦われヨーロッパが大戦の予感に慄いた時代である。

 またイギリスで女性参政権が認められたのは僅か20年前の1918年、イギリスにおいてすら女性の職業選択の自由や就学の権利がこのころは一般的でなかった。

 さてタイトルの「3ギニー」は、その稀有な就業の機会で得た最初の収入を「女子学寮建替基金」「女性の就職支援団体」「文化と知的自由を護る協会」にそれぞれ1ギニーずつ寄付しましょう、というレトリックである。そのことを通じて女性の社会的地位の向上と同時に、女性の社会進出によって戦争を阻止したいという願いが込められている。

 そして社会の支配秩序が経済、政治、教育、宗教の各分野において男性だけが特権的立場を独占することにより形成され、「男=社会」「女=家庭」という2つの世界に分断されてきたことが数々の事例で証明される。

 興味深いのは、ウルフがこのように強固な男性の社会的文化的支配の根源をフロイト心理学に求めている点だ。女性が社会的地位を求めるたびに男性側から発せられる強い拒否感情についてグレンステッド神学博士の説を援用する。

 「一般にこの問い(女性による社会的立場の要求)が検討される際に生じる強い(反発)感情を決定付けているのは、明らかに幼児性固着である。…女は『できそこないの男』だという潜在意識内の想念に従い、男は優れている、女は一般的に劣っているとする一般的見解の根底には、この種の幼児期の複合観念がある。非合理的なものであるが、これらが成人になっても残っているのは一般的であり、よくあることでもある。それらが意識的思考レベルより下位に存在していることは、それらが強い感情を表出させる際にわかる」(P228)

 幼児性固着とは、成人後も感情となって表出することがありうる強い幼児的思い込みの事である。男性が既得権に固執し女性に対して排他的になるとき、その根源にあるものは論理ではなく幼児性にあるという事だろうが、差別的感情の本質をよく説明している。

 現在フェミニズムではフロイト心理学は女性を男性の欠陥版として見るとして批判されることが主流のようだ(女性ライフサイクル研究所|アメリカにおけるフェミニスト心理学の歴史と展望)。ウルフは1930年代という時代的制約の中で、当時の学知の先端を柔軟に逆用したともいえる。

 本書中にも出てくるが、19世紀は骨相学が流行していて、女性や黒人が劣っている事の学問的証明とされた。それらが似非科学だったことは現在では常識である(19世紀の疑似科学 骨相学について解説 - ログミー)。

 女性差別だけでなく人種差別や性衝動・暴力衝動の起源を本能に求め、そこに科学的粉飾を与えようとするのは古今東西繰り返された事ではある。しかし差別・性(性的指向、社会的性)は文化的なものであり、社会的文化的脈絡の中でとらえ返され、反省が加えられ、変革されていくべきであろう。

 訳者解説にあるように、『3ギニー』は第2次大戦を阻止することは出来ず、ウルフ自身もナチスのイギリス上陸が噂される中、1941年に失意の自殺を遂げる。その事はウルフの敗北のようでもある。

 しかし、『3ギニー』が読みつがれて女性や自己変革を希求する男性の指針であり続ける事はウルフの勝利をも意味するのではないだろうか。