時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

内乱時代の思想 -出征前夜の大岡昇平ー

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「決してありのままの姿ではなく、虚偽やごまかしに満ちている」(『現代小説作法』)。

 大岡昇平私小説を個人の内面の正直な告白であるとはとらえず、描写の対象が書き手その人の内面である以上は書き手の主観や虚飾が色濃く反映されてしかるべきだと考えていた。

 すなわち、自叙伝は自叙伝ではなく小説的自叙伝であるならば、批評は批評ではなく小説的批評というべきであろう。

 大岡の、戦中回顧談と戦時中に書かれた批評を対照する作業を行うにあたってまず考えたのはこの冒頭の態度である。われわれは、文士が書き遺したものを通じて件の文士の思想を知ることができる。しかしそれは真実ではないかもしれないという用心をもって読まれなければならない。だが、真実ではないにせよ思想の一端を知ることはできるであろう。そう、私の好奇心は真実を知ることにあるのではなく、あの戦時中に大岡がいかなる思想を持ちえたか・または持ちえなかったか? を知ることにある。

 

 「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることができなかった以上止むを得ない。当時私の自棄っぱちの気持ちでは、敗れた祖国はどうせ生き永らえるに値しなかったのであった。しかし今こうしてその無意味な死が目前に迫った時、私は初めて自分が殺されるということを実感した。そして同じ死ぬならば果たして私は自分の生命を自分を殺す者、つまり資本家と軍人に反抗することは出来なかったか、と反省した。平凡な俸給生活者は反戦運動と縁はなかったし、昭和初期の転向時代に大人となった私は、権力がいかに強いものであるか、どんなに強い思想家も動揺させずにはおかないものであるか知っていた。そして私は自分の中に少しも反抗の欲望を感じなかった。」

 『ある補充兵の戦い』中の、召集されてフィリピンへ回送される最中の胸中を綴った、有名な一文である。私が知りたいのは、大岡は果たして本当に自分の中に少しも反抗の欲望を感じなかったのか? だ。

 

 昭和19年の召集よりさかのぼる昭和12年すなわち日中戦争開戦前後、まだ日本の将来を案ずるにあたって対米戦回避・宥和を夢見ることもできたはずだがそれを実行に移す人がいなかった頃、大岡は何を考えていたのだろうか?

 「文学はやめたと思って、神戸へ行ったんだが、しかしスタンダールだけは向こうへ行っても夜、翻訳したりして続けていたんだよ。あまり売れないけどね。まあ意地があった。(中略)スタンダールの翻訳で稼いだ金で飲んでたよ。月給があるから、売れる本を翻訳する必要はないと思ってた。飲み代が少しあればいいんだから。(中略)朝の三時までは机に向かっていることもあったよ。(中略)翻訳は、これは本来人に読んでもらいたいということで日本語にするわけだよ。ぼくはスタンダールを読んでもらいたいと思うから、売れなくてもスタンダール、もしくは彼に関する本だけ訳す」(『二つの同時代史』)

 これは1980年代に入ってからの埴谷雄高との対談における日中戦争開戦前後の回顧談である。大岡は1936年から1944年までの間に「朝の三時まで机に向かって」スタンダールハイドン』、バルザックスタンダール論』の翻訳をはじめ、数編のスタンダールについての批評を残した。戦後、『俘虜記』の大ヒットで一般に知られるようになる前の、きわめてささやかな文学的足跡といってよい。

 「意地で」「読んでもらいたい人だけ読んでもらう」ために朝三時まで机に向かって書いた文章から、彼の思想を読み取ることができるだろうか? そして、もしそこに思想の片鱗があると仮定して、それは「権力への反抗の欲望を感じない」類いのものだろうか?

 以下、「」内に『わがスタンダール』にまとめられた戦中の大岡のスタンダール批評を引用する。

 大岡のとらえたスタンダールの思想を一言でいうなら「幸福な少数者」である。そして「幸福な少数者」とは「偏見に囚われず、幸福の何物かを知り、それを求める術を知っている」者である。それはつまり、時代の制約に対して果敢に切り込み、敗北したとしても自らの使命を全うする「時には危険を冒さねばならない」行動的人間である。

 「文学に於ける政治は音楽会の最中に放ったピストルの様なものだ。傍若無人だが、しかし注意しないわけにはいかない」「スタンダールにとって政治は或る自ら制御し得ない精力の現れで」「あくまで個人の幸福を超えた暗の力の爆発であった」「政治も死と同様、最も文学的ならざるものである。が要するに『政治が運命である』以上避けることは出来ないし、避けるのは意味がない」「人間ははたして政治的好奇心から自殺を思いとどまることが出来るかどうか」

 これらの断片から見え隠れするスタンダール的「幸福な少数者」とは、フォルトゥナ(運命の女神)に対抗するヴィルトゥ(徳性が転じた力)=「狐の狡知とライオンの力を兼ね備えた」マキャベリ的人間である。ゆえに「幸福の少数者」は政治とは無縁でありえない。

 大岡は、スタンダールマキャベリ的政治的人間の典型であることを見抜いていた。ではスタンダリヤンとして大岡は「幸福の何物かを知り、それを求める術を知って」「危険を冒」しただろうか?

 『わがスタンダール』冒頭の『スタンダアル』という小論に大岡の苦渋が見て取れる。これが書かれたのは1936年、盧溝橋事件の一年前だった。以下引用する。

「我々は戦争の惨虐を見たくもなければ、聞きたくもない。投機業者の跋扈とあらゆる文化的環境の低下は、我々の高邁なる精神の真に堪え難しとするところだ。(中略)憤懣の抑制には我々はよく馴らされていたはずではないか。現代社会の一部を蔽っている或る風潮に対して、我々が決定的な態度を取り得ないのも理由なしとせぬ。我々知識人の政治的環境が限界を持つに従って、政治的好奇心も制約を受ける。好奇心だけについていえば、却って制約を受けぬということも出来る。我々の政治的無力の水面に好奇心は油の様に拡散しているのである。智能がわが国の政治を左右したらしく見えた時代すらすぎさったのである」

 治安維持法のもとでのギリギリの表現というべきだろう。もちろんこの独白は逆説である。「智能が政治を左右」するなら、「現代社会の一部を蔽っている或る風潮に対して・・決定的な態度を取」るべきであるが「政治的環境が限界を持つ」中で「好奇心だけが油の様に拡散している」のだ。

 私は大岡の「権力への反抗の欲望」をそこに見出す。ただし、その「欲望」は「制約」され「無力の水面」の上に漂うことしかできなかった。

 

 1944年5月、大岡訳のバルザックスタンダール論』が小学館から出版された。しかし大岡はその年の3月に召集されていて、念願の本を受け取ることができなかった。彼が自ら訳した『スタンダール論』を手にしたのは出征先のフィリピンだった。そのフィリピン・ミンドロ島の敗残兵としての体験が、彼の第二の人生への転機となる。しかし『俘虜記』を通じて大岡の文学的才能が開花するのは、そこからさらに数年後のことである。

 

 「スタンダールの思想は本質的に内乱時代の思想である」(『スタンダールハイドン」について』大岡昇平/1941年)

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