平成の終わり
前回「平成最後の夏に」というタイトルでブログを書いたのは昨年の8月も終わりの頃だった。
一つの時代の節目を振り返ってみようと気楽な気持ちで書き始めたが、30年間を振り返るのは簡単ではなく、「時代にもて遊ばれて何度も難破しかかってきた感覚や思考や罪を社会意識の変遷という脈絡の中でとらえ返していきたい」という抽象的な言葉で締めくくられたまま、本論は未完だった。
今、その続きを書こうとしている。
前にも書いたように、私は歴史には語り部の主観が反映されざるを得ないものと考えている。今から私が書こうとしている「平成30年間の振り返り」なるものも、記述する私自身の思い込み、決めつけ、こじつけから自由ではない事を自覚しなければならない。
しかし私は、どうせ書くならそれは誰かに届くものであってほしいと願うし、出来ればその届く先は、私に同調する人でなく私の論争相手に対してであってほしいと願う。
ここでは30年間のエピソードの細部にはあえて踏み込まない。
30年間の、そこに解釈の差異の生まれようもない大きな構造の変化と、それによってもたらされた社会意識の変化にのみ言及する。
そこに解釈の差の生まれようもない大きな構造の変化とは、例えていえば「近年、日本周辺の地殻変動が活発化している」というような、天変地異になぞらえることが出来るような社会的変動の事である。
それによってもたらされた社会意識の変化とは、天変地異に際してどの方向に逃げるべきかという、当事者となっている人々の思考、判断、感覚の事である。
私には、平成の30年間の終りに私達が見ている光景は、100年単位で起こる世界の地滑りの、クライマックスともいえる動的変化に映る。
そしてここ数年特徴的だった日本人の言説の様々な現れ方は、地滑りから逃れようとする人々の断末魔の叫喚に聞こえる。
そこに解釈の差の生まれなようもない大きな構造の変化とは、この(平成の)30年間でいえば、下記の3点に集約されるのではないか。
- 1989(平成元)年に始まった、冷戦構造の崩壊(消滅といわず崩壊としたのは、世界にも日本にも冷戦構造の残滓が残っているからだ)
- 日本の経済的地位の相対的低下、主要には2010(平成22)年にGDPで中国に抜かれた事
- 日本で2011年(平成23)年に始まった人口減少
これにシンギュラリティに連なるIT革命を加えても良いかもしれない。ただ、IT革命からSNSの普及による政治世論の変化は、社会意識の変化の要件であっても動因ではない気がする。AIの普及がもたらす人間と機械の境界の問題は別であろうし、それはそれで興味深いが本稿の主題とは違うだろう。
さて上記3点についてその構造的変化とは何だったか? それのもたらす地滑り的影響とは何か? についてまず見ていきたい。
本稿は「平成の終り」というタイトルでっ上記3項を1回ずつ3回に分けて掲載する。
【冷戦思考を抜けられない日本人(冷戦構造の崩壊とその影響)】
ベルリンの壁崩壊に象徴される米ソ冷戦の崩壊について、今さらくだくだしくここで書く必要などない。
ポイントは、冷戦の崩壊は世界的現象であるが、私達日本が位置する東アジアでは共産圏での政治体制の崩壊は起きなかったという点である。もちろん、冷戦崩壊の間接的影響は東アジアでも中国、ベトナムの改革開放への舵切、北朝鮮の孤立化と軍事的先鋭化など、旧共産圏各国に様々な形で引き起こされた。だが。
政治的立場の右・左を問わず、今から書くことに物凄い違和感をおぼえる人が多いかもしれない。
東アジアでは、冷戦の崩壊は共産主義諸国の内部崩壊としては実現せず、むしろ資本主義陣営内部から、開発独裁の民主化の形をとって表れた。つまり、共産圏が自壊したヨーロッパとは逆の現象が、洋の東西で捻じれるように実現したのである。極東で民主化運動を経て80年代末から90年代に独裁体制が打倒された国・地域は主だって以下のごとくである。
韓国(1987年、民主化宣言を経て大統領直接選挙制へ移行)
フィリピン(1986年、ピープルパワーにより独裁者マルコス失脚)
もちろんこれら各国の民主化運動はそれぞれの社会の内部で長年に渉って育まれ闘われてきたものであって、共産圏の崩壊に呼応して発生したものではない。共産圏内部の民主化運動も、言論の自由が制限された中で長年に渉り継続されてきたわけだが、同じ70年代から80年代、東アジア諸国では、共産圏と対峙する必要から主としてアメリカの援助によって成立した開発独裁に対する抵抗運動が続けられてきた。
これら開発独裁の民主化の動きと逆に、中国・北朝鮮はそれぞれ全く違った形であるが、冷戦崩壊期を経てもなお一党独裁の政治体制を維持している。
第二次大戦後40年から50年を経た時期に世界各地で相次いで起こった政変は、共産主義の崩壊として現れた東ヨーロッパと、開発独裁の民主化として現れた東アジアではちょうどリボンが捻じれたように、逆の現象として歴史に刻まれたのである。冷戦崩壊とは、東アジアにおいては何よりもまず「開発独裁の終焉」だったのだ。
では日本においてポスト冷戦時代の政治的変化はどのようなものだったか。以下、平成31年間における中央政権の変遷を見てみる。
宇野内閣(1989年)自民党
海部内閣(第1次・2次)(1989年~1991年)自民党
宮澤内閣(1991年~1993年)自民党
細川内閣(1993年~1994年)日本新党、社会党、さきがけ等
橋本内閣(第1次・2次)(1996年~1998年)自民党
野田内閣(2011年~2012年)民主党
※政党連立については一部省略
30年間の間に自民党以外の政権が3回現れ、首相は17人交代している。首相の在任期間平均は1.8年。ちなみに池田内閣が成立した1960年から1989年の29年間で自民党以外の政党が政権を握ったことはなく、その間首相を務めた人数は9人、首相在任期間平均は3.2年。これだけ見ても、平成という時代に、いかに政治は流動的で、不安定だったかがわかる。
池田内閣から竹下内閣までの昭和後期約30年は高度成長期であると同時に、旧ソ連を仮想敵とした冷戦期だった。池田内閣の誕生と「所得倍増計画」に象徴される経済成長路線は、安保闘争に象徴される国民の政治的関心を逸らす狙いがあり、それは大いに目的を果たした。また、冷戦期の自民党は「同じ政党と思えない」と揶揄されたほど右から左まで多様な政治思想の持主が集まっていたが、資本主義の護持を唯一の結集軸として、分裂することがなかった。
平成年間の政治的混乱とは何だったのか。
90年代、仮想敵ソ連の消滅と、中国経済がまだ弱体だった事を一時的な条件として東アジアにおける地政学的な緊張が一時的に緩む。外敵が突然消滅した事をきっかけにして、昭和後期30年で培われた自民党と官僚による硬直した体制に対して、一斉に批判が噴出した。
ポスト冷戦時代にあっては日本人もまた、内部体制の見直しに関心が向かっていった。その内部体制の見直しの行きつく先には、革命的変化が起こってもおかしくはなかった。
「聖域なき構造改革」「自民党をぶっ壊す」というスローガンを掲げて登場した小泉政権が、旧来の政官財の既得権を破壊し、日本社会の活性化をもたらすかもしれない期待を抱かせた時期もあった。
ところが「構造改革」「小さな政府」を目指した諸改革の時代的使命はとっくに終わってしまった。おもちゃ箱をひっくり返したような混乱だけ残して。
功罪併せもっていた既得権益の縮小のための諸改革は社会の流動化を推し進め、東京への一極集中、格差拡大、人口減少をもたらした。
これら社会構造の変化によって、日本社会の課題は規制緩和から大きく転換している。特に、日本社会・経済が格差拡大を基調とするようになった現在ではそれは「自由・公正・正義」の実現というフェーズに大胆に転換している。
2009年に誕生した民主党政権は子供手当や沖縄米軍基地の縮小など、社民的政策を掲げて官・財の抵抗に逢い、自らの経験不足もあって自滅していったが、あの民主党が政権交代後に社民的政策に傾斜していったのはそこに一定の民意が存在していたからではないのか。
そして今の日本人の言論的混乱の要因は、この課題を正しくとらえられない、または取り扱えないことに起因しているのではないのか。
以上が平成30年間に起こった日本社会の大きな構造的変化の1点目である。日本の政治は冷戦崩壊によって、共産主義に対する防波堤としての資本主義を護持する体制という存在意義を喪失したが、それに代わる存在意義をまだ見出すことが出来ていない。
そしてこの事は次回以降にのべる日本の経済的凋落、人口減少というテーマと密接に結びついていると考える。
(続く)