時空自在

タンジールから中国へ・そして帰還

読書感想文『恥辱』

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最近はまっているクッツェー

直近では『恥辱』(鴻巣友季子訳・早川書房)を読んだ。

カフカ的な転落をモチーフにしているが、カフカのような形而上学的な不条理でなく、リアルなアカデミズム内部のハラスメントやアパルトヘイト撤廃という現代社会が抱える問題を背景としている。 

カフカは都会的を舞台としているが、本作の最大の不条理の舞台は南アフリカの大地であり、起こる事件はカフカ的抽象でなくリアルだ。

本書は2つの事件を原動力として物語が進む。

一つ目の事件は、大学教授である主人公ラウリーが「気まぐれに」手を出した自分の生徒からセクハラで訴えられるというものだ。ラウリーと被害者の女子学生の間に立つ調停役の大学の事なかれ主義。ラウリーは大学による調停を拒否したため野に追われる。ハラスメント問題という、新時代における権力構造の微妙な変化の中で、彼は旧時代に取り残されていく。

二つ目の事件は、ラウリーと、彼が身を寄せた農場を経営する娘が苛酷な犯罪の被害者となる。事件は裁かれるない。事件の顛末を通じて主人公と娘は亀裂を深めていく。アパルトヘイト撤廃直後の南アフリカ、近代的理性が通用しない世界に主人公と娘は投げ出されていく。

興味深いのは、19世紀英文学の研究者だったラウリーが、アカデミズムの中で「文学無き時代」を実感し、アカデミズムから追われてからも文学的感傷に浸る余裕など全くなかったのに、追い詰められれば追い詰められるほど、創作への意欲を募らせていく事だ。

バイロンと愛人テレサをモチーフにしたその戯曲は、恐らく完成する事はないだろう。創作にのめり込めばのめり込むほど、主人公ラウリーにはバイロンから棄てられたテレサの奥底からの声しか聴こえなくなり、夭折し史実にも殆ど顔を出さないテレサの私生児が幻影のように現れる。

芸術の意味としての「見えざる者たちへの忠誠」は、クッツェーがその後も小編のテーマにしているが、その姿勢がここにも見える。ラウリーは、恥辱と転落の果てにやっと「見えざる者たち」を見出していく。

そして、ラウリーの娘ルーシーが父親と亀裂の果てに選択していく生き方。やはり恥辱の末に選んだその道は、理性が届かない世界で、大地が向き合い、生命を育むという事だった。

『恥辱』は、社会問題や時代動向を背景にしながら、身体的・経験的な生きる行為が物分かりのよい軽い知性によって切り取られる事を拒絶している。

終章ではラウリーの再生がやっと暗示される。ただ、それがメタ言語的に示されるだけに、一層余韻が深い。